11月29日 礼拝メモ (T・O)
マタイ25章15~30節 (説教) 朝比奈悦也師
「良い忠実なしもべ」
マタイの福音書25章には、イエス様が天国についての真理をたとえ話を用いて語られている箇所である。今日の箇所には私達にとって最も大切な永遠に関わる真理が記されている。それを3つの点から学ぶ。
一、二種類のしもべ
良い忠実なしもべと悪い怠け者のしもべの二種類である。その二種類のしもべは全く違った扱いを受けている。良い忠実なしもべ(21節・23節)は主人との 信頼関係がしっかりとしていて主人の沢山のものを任され与えられている。任されたしもべは生きがいやりがいを覚え、主人の喜びを共に喜び、感謝と納得の中に生きることができる。しかし悪い怠け者のしもべ(28節)は持っているものすべてをとりあげられ、泣いて歯ぎしりするとある。世のものをどんなに多く蓄えたとしてもすべてが失われ、後悔、悲しみ、苦しみ、絶望感でしかない。私達は皆やがて神様の前に立ち、精算のときを迎える。そして、良い忠実なしもべか、悪い怠け者のしもべかに分けられる。もう人生のやり直しがきかないときである。
二、二種類のしもべに対する判断基準
神様はそれぞれのしもべの能力に応じてタラントを預け、その預けたものに対してどうであったかを見られる。判断基準は「わずかなものに忠実であったから」(21・23節)である。イエス様はわずかと言われるが1タラントとは六千日分の給与に価する額で、驚くような額である。人は多くの場合、人と比較して自分の能力の小ささを悲しんだり、人を羨んだり するが、目の付け所を間違ってはいけない。能力や実績ではない。忠実さにこそ目をつけるべきである。
三、聖書のいう忠実さとは
辞書で忠実さとは、まごころを込めて行うこと、とある。わずかなものに忠実とは、だれも感心を払わないような、大したことはないことにも真実に忠実に当たることである。神様はそれを見ておられる。忠実さは、小さなわずかなことの中に養われていくものである。そして19節で「よほどたってから」とあるが、長い期間をかけ人生を通してわずかなものに忠実であり続けたかどうかを主はご覧になる。
やがて私達の人生に対して精算のときが来る。良いしもべか、悪いしもべかを神様は分けなさる。その判断基準は忠実さ、わずかなものに忠実であったかどうかである。信仰者として神様の前に、また置かれたところで忠実に生きるお互いでありたい。