『みちの光』

インマヌエル綜合伝道団 大阪伝法キリスト教会牧師 朝比奈寛著

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

                 (詩篇119篇105節)

2月1日

聖書 エペソ人への手紙 4章 26節

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」

「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。」

 

 信仰者は怒ってはいけないのではない。その怒りが聖められなければいけないのです。多くの場合、怒りは利己的な感情から出て来ます。また怒りはその人の性格をよく示します。聖くない性格からは聖くない性質の怒りが出て、悪い働きしかいたしません。怒りがどういう原因から出ていますか、怒りが燃え上がる時の燃料はにくしみですか、ねたみですか、個人的な損害ですか、そねみですか、もし怒りが私達の悪が原因となって燃え上ったのであるならば主の血を仰ぐ必要があります。純潔な神より来る怒り、柔和なイエス様よりの怒りこそ罪を犯さぬ怒りであります。

 

*寸想*

○神をもっと深く知る事をつとめよ。

○家族のために重荷を負って祈れ。

○手近にある小さき善事を怠るな。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、利己的な小さい感情から、すぐ怒りやすい性質を全く聖めて真実な愛のゆえにイエス様のごとく感情を正しく制御できる者にしてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


2月2日

聖書 申命記 8章 11節

「気をつけなさい。…あなたの神、主を忘れることがないように。」

「気をつけなさい。…あなたの神、主を忘れることがないように。」

 

 信仰者は神を忘れてはなりません。神を忘れる信仰者というものがあるだろうか、とある人は反問するかも知れません。しかし実際あるのです。どんな時に忘れるのでしょうか、第一に何でも都合よくいって心配する事がないように思われる時です。第二にいろいろなものが豊かになり、満ち足りた生活の中にいる時です。物質的に豊かで健康でいろいろな事が順調にいっている時、人間は傲慢になりがちです。満腹になって目がたるんで眠り始めるのです。信仰は捨てていませんが、祈る事よりも楽しむ事が、聖書を読むよりも他のことが主になります。これが神の忘却です。注意しなければなりません。

 

*寸想*

○朝もあれば昼もあり、夕方もあれば夜もある。周囲のものは常に変わる。変わらぬ神に変わらぬ心を常に向けよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、祝福と恵みを受ければ受ける程、へりくだって神を崇め、いよいよ神により頼む、神に従う者にしてください。イエス様の聖名によって感謝してお祈り致します。アーメン

 


2月3日

聖書 ヘブル人への手紙 13章 15節

「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」

「それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。」

 

 昔のユダヤ人は定められた日に律法に従って一定のいけにえを神に献げ、儀式の一部分として賛美を致しました。しかし私共はイエス様の恵みの業によって、常に献げ物を神様にすることができるようになりました。それは賛美のいけにえです。一定の日だけでなくいつでも賛美する事ができ、誰でもできるのです。金銭も財物も牛や羊も持たぬ貧しい人でもみんな神様に献げ物ができます。それは賛美です。明るい日も暗い夜も、喜びの日も悲しみの夜も神を崇め、その恵みをほめたたえましょう。神様が喜んで受けなさるくちびるの果実、賛美を心より献げましょう。

 

*寸想*

○神にとって大いなるものがしばしば人間には小さく見える事がある。小事と見える事をいい加減にしてはならぬ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共はあまりに賛美のいけにえをなすに怠慢な者であることをおわび致します。どんな時にもあなた様をほめたたえる者にして下さい。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月4日

聖書 ローマ人への手紙 12章 11節

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」

 

 「主に仕えなさい」とはイエス様の用に自分と自分の持っているものを使うことを意味します。その時、いやいやするのではなく、心から熱心にしなさい、というのが「勤勉で怠らず」という聖言の意味です。聖霊が働く時、私共の霊は燃え、活き活きとして積極的になり、熱心に主イエス様の御用に励むようになります。少し感激して枯葉に火がついたようにパッと燃えて、すぐ消えるような熱心ではありません。心の底から燃えて主に仕える人間として頂き、信仰者としての使命を心から果たさせて頂きましょう。

 

*寸想*

○自分には価値あるものに見えて神にとって無価値なものがある。捨てよ。

○良心と議論をするな。

 

*お祈り*

 天の父なる神さま、燃えた人間、積極的な、真実な意味において熱心なあなたの僕にしてください。冷めやすい性質を変えてください。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


2月5日

聖書 詩篇 1篇 2節

「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」

「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。」

 

 「その人」とは神様に祝福される人であり、「主の教え」とは神様のことば、すなわち聖書の事を指しています。神様に祝福される人とは聖書を愛し、喜んで読み、昼でも夜でも深く思いめぐらすのであります。聖書を読む時、神が聖書を通して語りかけるのですからまず祈り、心を静かにし、敬いと教えられる心、謙遜な、神を崇め拝する心をもって読むべきであります。聖霊が聖言の意味を私共の心と霊に悟らしめてくださるように願いつつ注意深く読み、聖書をもとに日々の生活を送るのです。その時、幸いな生活が力強く一歩ずつ進められて行くのです。

 

*寸想*

○なぜ臆病になるか、信仰うすき者よ、とペテロはイエス様に叱られた。

○ただ一筋に進め。これは真理の道だ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、聖書を拝読することがいかに大切であるか、また聖書をいかに読むべきかを教えられましたが、まじめに聖書による生活を送らせてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


2月6日

聖書 エレミヤ書 11章 4節

「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命ずるように、それを行なえ。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」

「わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命じるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる」

 

 神を信じるとは神に従うという決意を含めた行為です。信仰と服従は離すことができないものです。神は私共が罪を悔い改めてイエス様を私の救い主として信じ受けた時、服従の道をたどることができるように力を与える聖霊を心に住ませていてくださいます。ですから神様の命令と指導に必ず従うことができます。もし言うことを聞かぬ患者があったら、医者は病気を治療できるでしょうか。指揮者に従わない軍隊で、果たして戦いに勝てるでしょうか、服従はどの世界でも大切です。信仰の道においても神に従う時だけ勝利と祝福が約束されています。

 

*寸想*

○毎日顔を洗うように心を洗っているか。

○顔や着物に注意するが、自分の品性と心の動きに注意する人は少ない。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共はまだまだ本気で神様に従うことがどんなに大切なことか分かっていない者です。もっと真実に神様の聖言に従う者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月7日

聖書 詩篇 119篇 107節

「私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。」

「私はひどく苦しんでいます。 主よ みことばのとおりに私を生かしてください。」

 

 苦しい時、悩んでいる日に聖言を信仰をもって受ける時、私共はあたかもよみがえったように力と確信にみたされます。しかし聖書を読み考える前に祈る必要があり、読み終ったらまた祈るべきです。聖言によって神は私共に語り、祈りによって私共は神に答えるのです。聖言によって祈るべき事を示され、祈りへの確信を得、神の御旨を悟り、神の御旨にかなう祈り、即ち必ずきかれる祈りをささげることができます。真の祈り、能力ある祈りをするためには聖言がぜひ必要です。毎日聖言によって心と気分を新しく力づけて頂き、能力ある祈りの生活を続けましょう。

 

*寸想*

○集会に励む者は成長が早い。

○祈りが弱いのは霊的呼吸器疾患。

○金銭にとらわれた人間になるな。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、聖言によって力づけられ、導かれた祈りを励みつつ、勝利と感謝、栄光と喜悦の毎日を送ることができますように助け、守ってください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


2月8日

聖書 ペテロの手紙第一 1章 8節

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。」

 

 私共はイエス様を肉眼をもっては見ていません。しかしイエス様を愛し、信じ従っています。またそれゆえに喜びを経験しています。イエス様が愛してくださるので私共の心は愛に満たされイエス様に対する愛となるのです。愛は行動の原理であり、原動力です。愛は喜んで犠牲を払うことを得せしめます。愛は力であり一切を動かし変えてゆきます。大いなる愛は大いなる信仰を生みます。愛と信仰は2つの翼となって私共の心を主に結ぶために高くのぼらせ、言いがたい喜び、光栄ある喜びをもって満たします。今日も主に対する愛が更新されんことを。

 

*寸想*

○肉体は甘やかせるとますます横着になる。

○主の御用のために無駄をはぶけ。

○愛とは最も冷厳な自己否定である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私は愛というものを知らない人間でありましたが、イエス様の十字架により愛を知りました。この愛を私の心に満たしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月9日

聖書 創世記 28章 16節

「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」

「まことに主はこの場所におられる。それなのに、私はそれを知らなかった。」

 

 「主がこの所におられる」とは、ヤコブが孤独な旅の夜、冷たい石の枕のそばで見出した大いなる発見であります。またこの真理はヤコブが知ると知らぬとに関わらず、彼の全生涯の至る所において見出され得る事実であったのでした。私共は激しい試みのため、独り力なくポツンと立ちつくしていますか、不可解のゆえに疑いの霧に包まれていますか、病気のために信仰が弱っていますか、誘惑のためによろめき、あるいは破れて敗北感にとらわれていますか、その所に神がいらっしゃいます。神はあなたを捨ててはいません。あなたのそばにいてあなたが祈ることを待っています。

 今「主がこの所におられる」。

 

*寸想*

○しばしば傲慢な心から冷たい批評が出る。

○愛のない心、利己的な心、無責任な心、意地悪からも冷たい批評は出る。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今あなた様がこの所におられることを信じ、私を去らず私のそばにいて私を待っておられることを感謝します。もっと深くこの事を教えてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


2月10日

聖書 ローマ人への手紙 4章 20,21節

「不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。」

「不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」

 

 「信仰により強くなって」とは何というすばらしい事でしょうか。弱い者がどうしたら強くなるのでしょう。負けてばかりいる者がどうしたら勝利を得る者となるのでしょう。失敗だらけの人間がどうすれば栄光を見ることができるのでしょう。その答はただ1つです。「信仰によって」というのがそれです。神を信ずるその信仰は神の力を呼び下します。発電所の電力を必要な所に運ぶ電線のようなものです。信ずる時、神の力は来ます。信じ続けなさい。必ず強くせられて神の栄光を見るでしょう。 

 

*寸想*

○人を活かす真の知恵は神より来る。

○信じないものには一切が無である。

○真の勝利は自己に勝つ時にのみ来る。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、いつでも弱い、足りない、できない、と言っていないで神を心から信じ続けて、神の力に満たされて強く立つ者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月11日

聖書 ヤコブの手紙 4章 17節

「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。」

「なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。」

 

 罪に2つの種類があります。してはならない事をするのは積極的な罪であり、しなければならない事をしないのは消極的な罪であります。信仰者になってから積極的な罪を犯すということはなくても、消極的な罪を犯している人が案外に多くあります。善い事であると知っていながら、怠慢のゆえに実行しないのです。この罪に陥らぬためには、今自分でできる小さい事から実行を始めることが必要です。信仰は善い事を実行できるように力を与えるものです。大きい事を考える前に小さい事で、気のついたことからやり始め、神に祈りつつ力を受けて、善を実行致しましょう。

 

*寸想*

○良心の声に反対するのは、良心を破壊することである。

○神への不服従は神への反抗である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、しなければならない事をしないで、それを罪と考えないでいた者ですが、今日よりそれを改めます。実行する力を与えてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月12日

聖書 イザヤ書 57章 15節

「わたしは、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。」

「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」

 

 神様は心の砕かれた人と共に住み、これを愛し給います。心の砕かれた人とは、頑固な心、ごう慢な心を去って神の前に素直に出る人を言います。砕かれる人とは、自分の悪と罪を悟ったならば正直に神の前に出て悔い改め、詫びる人を言います。へりくだる人とは自分を聖書の光に照らして、あるがままに認める人を言います。人間は自分を常に自分以上の者に見て、思いあがっているのです。こんな人に神がどんなに近づいても語っても少しも神が分かりません。今日もへりくだった心をもって、神と共に明るく一日を送ることができますように。

 

*寸想*

○祈って悪い習慣とくせに勝て。

○言葉を大切にせよ。偽りを除け。

○気分に左右されるところより救われよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、砕かれない心はまた必ず、神様からの恵みをはじく心であることを知ります。へりくだって心からあなた様にお頼りする者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月13日

聖書 イザヤ書 41章 13節

「あなたの神、主であるわたしがあなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける。』と言っているのだから。」

「わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。」

 

 暴風に襲われると小鳥たちは大きな樹や山かげにかくれて暴風を避けます。人生には暴風はないでしょうか。あります。大きいものも小さいものも、いろいろあります。しかし信仰者にとっては人生の暴風の時、苦しい時、つらい時、悲しく淋しい時に神様が助けとなってくださるので心強くあることができます。神様を助けとし、力づけられ、慰められ、希望を握り、苦しい中にも雄々しく立ち上がる姿こぞ信仰者の本当の姿です。何かあっても恐れる必要はありません。心配していないで、神の助けを祈り求め、信仰を持って力強く進むべきであります。

 

*寸想*

○聖く静かなる心は神を見る。

○神にもっと、もっと近づけ。

○激しい現実の中で信仰を鍛練せよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日あなたは私共に「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と約束してくださいましたことを感謝します。この約束の通り今日も助けてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月14日

聖書 詩篇 34篇 9節

「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。」

「主を恐れよ。主の聖徒たちよ。 主を恐れる者には 乏しいことがないからだ。」

 

 主を恐れるとは神様を心から敬うということです。神様を敬う心から真実な祈り、真心からの祈りが出て来ます。静かに心から祈っている姿、敬虔に神の前に頭をたれている姿は神々しく美しく、侮れないある感動を与えます。信仰者はこの祈りの心をもって常に生活ができ、いつでも神の前にいる心をもってすべての事をすることができるようになります。この時、心に喜びと平安と満足は常に湧き溢れます。私共はもっと主を恐れ敬い、神に近く生活しなければなりません。その時乏しさというものは全くなくなります。

 

*寸想*

○常に快活な心を恵みによって保て。

○キリストのため、人のために進んで苦しみが忍べるようになったか反省せよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、心からあなた様を敬い、崇める者、そして神様が喜ばないことや、神様の御心を痛めるような言葉を口から出さない者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月15日

聖書 蔵言 3章 6節

「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」

 

 「主を認める」とは、神様が活きて存在し働いてい給うこと、自分にとって神様の助けと守りが必要であることを承知すること、そして心から神様にお頼りすることを意味しています。「行く所どこにおいても」とは毎日の生活のうちで、どんな事がある時も何を計画する時も、

何をする時も、いつでも、ということを意味しています。いつでも神様を認めて心からお頼りしなさい、というのがこの聖言の前半分の意味です。そうするならば神様は不幸、邪魔ものをとり除いてくださるというのが後の半分の意味です。今日も心から神様にお頼りをし、祈り、神様の助けを信じて仕事につきましょう。

 

*寸想*

○一日のうちに何度祈るか。

○少しの時間があったら神に祈れ。

○天国とは神の愛が支配する所である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共が願う前に、私共に力強い約束の聖言を与えてくださいましたことを感謝致します。常に何をする時も祈る者にしてください。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン

 


2月16日

聖書 ヤコブの手紙 1章 4節

「その忍耐を完全に働かせなさい。」

「その忍耐を完全に働かせなさい。」

 

 信仰者が積み蓄えるべき財産は品徳であります。品徳というものは一度に身につくものではなくて、時間がかかりますし訓練が必要です。しかも生涯だけでなく永遠に残る財産でありますから、心をこめて養い育てなければなりません。忍耐は大切な信仰者の品徳です。聖書のいう忍耐は世の中で教えられる忍耐とは違って、希望に裏付けされた忍耐です。明るい、積極的な、力強い忍耐です。イエス様を信じた時、私共の心には忍耐の種が与えられています。これを育てるには忍耐する必要のある時、忍耐を実行することによってのみ可能です。今日も忍耐を働かすように。

 

*寸想*

○金銭を永遠の価値あることのために用いよ。

○信仰のない人とは一線を引け。

○信仰のない人には愛をもって勝て。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、忍耐の訓練は神様の前において、絶えず実行することによってできる事を教えて頂きました。もっと忍耐を実行する者にしてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


2月17日

聖書 テサロニケ人への手紙第一 5章 14節

「兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」

「兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。」

 

 信仰の友を励ましなさい。信仰の友を助けなさい。信仰の友のために骨を折りなさい。時間をさき、犠牲を払いなさい。それは神を喜ばせ、友の心に感謝と敬意を湧かせ、あなたの骨を強くたくましくします。ある人はいつまでも信仰の友のために骨を折ろうとしないので、甘やかされた子供のように信仰が弱いのです。友を助けることは自分を強くする道です。特に寛容をもって、すなわち広い暖かい心をもって友を許し、忍ぶことは私共をイエス様に似た者とならしめる大切な要素です。

 

*寸想*

○欲しいと思った時、何がどうあっても手に入れようとするのをむさぼりという。

○衝動的な人間になるな。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、信仰というものは利己主義な考え方になると、その力が弱り、そうでない時、強くなることを知りました。もっと奉仕する者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


2月18日

聖書 詩篇 141篇 3節

「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」

「主よ 私の口に見張りを置き 私の唇の戸を守ってください。」

 

 チャールス・ウェスレーは「決して災いの言葉を語るまい、軽はずみな優しさのない言葉をはく事はすまい」と言っています。昔から人は自分の口の言葉で悩み、わざわいを受け、一生を破滅させた人もあります。信仰者は言葉に深く心をとめなければなりません。人の心を傷つける言葉、人の徳をたてない言葉は決して口から出すべきではありません。しかしながら「口の戸には鍵がかからぬ」と俗言にもあるようになかなか、口を慎しみ、言葉を守るということは容易ではありません。しかし神様は私共に聖霊を与えて、これによって私共が口を守ることが、できるようにしてくださいます。自らの口を守って頂き、むしろ、人に益を与える言葉を出すことができますよう祈りましょう。

 

*寸想*

○人の言葉はその人の思い、その人の性質によって左右される。性質を変えるならば言葉もまた変わってくる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、しばしば口の言葉によって失敗しやすい者でありますが、今日も私共の口を守り、益ある言葉を出す事ができる者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月19日

聖書 蔵言 29章 25節

「主に信頼する者は守られる。」

「主に信頼する者は高い所にかくまわれる。」

 

 神様は今日まで、私共を守り導いてくださいました。私共が今日あるのは私共自身の力によるのでもなければ、又偶然によるのでもなくて、神様の力と守りによるのであります。もちろん心の目が開かれていませんとこういう事はわかりません。しかし信仰によって心の眼が開かれると一切の事に深い原因があること、即ち、神様の働きというものがあることを知るようになります。これをただ知るだけではなくて、更に一層深めて、神様にお頼りする心にしなければなりません。真心からお頼りする者を、神様は必ず守り、一切の悪と罪と災いより逃れることができるようにしてくださいます。変わらない信頼の心を保ち続けましょう。

 

*寸想*

○神に頼るとは神にまかせることである。

○神にまかせた心には心配がなくなる。

○心配がある間はまかせていないのだ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共はともすれば神様に頼りながらもなお、他のものにも頼ろうとする者でありますが、心一筋に神様にお頼りする者にしてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


2月20日

聖書 詩篇 57篇 2節

「私はいと高き方、神に呼ばわります。私のために、全てを成し遂げてくださる神に。」

「私は いと高き方 神を呼び求めます。 私のために すべてを成し遂げてくださる神を。」

 

 叫べ、呼べ、語りかけよ、訴えよ、祈れ、子供は何かあるとすぐ親の所に行ってそれを言う。それは危急の時には叫びとなり、あるいは親の名を呼ぶ声となります。また静かに親に語りかける時もあれば、涙をもって何かを訴える時もある。神様は私共の親であります。私共は神様の子供です。何か問題があるならば、すぐに神様の名を呼ぶべきであり、語りかけるべきであり、時には訴え、あるいは願うべきであります。神様は私共のためにすべての事を成し遂げてくださることができるお方であります。信仰をもって祈り続ける者であらんことを。

 

*寸想*

○神は信仰者を祈る者とするために祈りを必要とする悩みの中に置き給う。

○苦難が迫る時、神もまた近づき給う。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日もあなた様を私の父として祈ることができますことを感謝致します。事ごとに子供のような信頼をもって祈ることができる者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月21日

聖書 エレミヤ書 7章 23節

「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。」

「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。」

 

 神に従う心、これが信仰の心である。できる、できないはともかく、何でも神様のご命令通りにやっていきたいと願う真心は神を信ずる者には必ず存在するものです。信ずる以上は従うことが当然なのであって、従わないことは正当なことではありません。信仰者は神様が聖書によって示しておられる命令に従う時、何とも言えぬ喜びと安心と満足を感ずるものです。これは神様が喜んでおられること、神様に受け入れられていることの証拠であります。従えば従うほど、自分が神様のものであるという感じを強めることができるようになります。

 

*寸想*

○全き心を祈り求めよ。

○いけない、いけないと思いながらいつまでも同じ事を繰り返すな。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、一層、真実な心をもってあなた様に従う者にしてください。そして、私があなた様のものであるという確信を強めてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月22日

聖書 詩篇 23篇 2,3節

「主は私を…いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」

「主は私を…いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。」

 

 J・キーブルは「神はゆるやかに流れる水のほとりに、私を導きなさる、その水は静かに澄んだ水で、私の疲れ迷った心に安息と満足とを与えるものである」と言っています。神様は信仰者の心に満足を与えたく願っておられます。しかしそれは神様に従うことによってのみ与えられる満足です。羊飼いは羊に水を飲ませるために導いていきます。その時、従っていかない羊は飲むことができません。神様は私共に喜びと満足を与えるために導いておられます。常に従う者であらんことを。

 

*寸想*

○神は一歩一歩導いてくださる。先の先まで心配するのは不信仰である。

○現在の生活の中に喜びの泉はないか。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様はやさしい羊飼いのように私共を導いてくださいます。なお心を喜ばせ、満足と祝福に満ちた生涯を送らせてください。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


2月23日

 聖書 イザヤ書 25章 9節

「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。」

「見よ。この方こそ、待ち望んでいた私たちの神。私たちを救ってくださる。」

 

 神を待つ、これが信仰者のとるべき態度であります。神を待つとはまず神に期待を置くということであり、神の助けを祈り求めるということであります。神を待つとは聖書に書いてあるごとく、神が忠実にその約束を果たしてくださることを信じて待つことを意味します。神を待つとは、いらいらせずに神に感謝をささげながら、神が一切を最善にしてくださることを信じて待つことであります。その時神は、必ず、私共にその真実を示してくださいます。心を動かさず神を信じ、心を強くして神を待ち、栄光の日を待つ者であらねばなりません。

 

*寸想*

○神の御心に従って生きるのが信仰生涯である。しかしながら、ある信仰者は自分の計画に従って生きている。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、昔からあなた様を信じ待ち望んだもので失敗した者はありません。私共をもいよいよ心を堅くして信じ頼る者にしてください。イエス様の聖名によってお祈りいたします。アーメン

 


2月24日

聖書 マルコの福音書 14章 8節

「自分にできる事をしたのです。」

「自分にできることをしたのです。」

 

 神様が喜ぶのは、信仰者の真心であります。金銭をささげる事でもなければ、大いなる財産をささげる事でもありません。真心のこもらないものはいくらささげても何にもなりません。しかしながらいくら少額でも真心のこもったささげものは神様に喜ばれます。神様は心を見ておられるのです。表面のことなどは問題にしておられません。表面のことを問題にするのは人間なのです。真心とはなんでしょうか。それは「自分にできる事を」するということです。今おかれている立場や境遇で自分のできるだけのことをする。これが真心です。神様はこの心を最も喜んでお受けになります。

 

*寸想*

○服従と献身とによって初めて、しっくりした信仰が湧いてくる。

○一切の事に最善を尽くせ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、真心の少ない者でありますが、いつでも真心をもって生活する者、即ち神様にも人にもなし得るかぎりをもって尽くす者にしてください。聖名によってお祈りいたします。アーメン

 


2月25日

聖書 詩篇 68篇 19節

「ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。」

「ほむべきかな 主。 日々 私たちの重荷を担われる方。 この神こそ 私たちの救い。」

 

 自分ひとりだけが苦しんでいるのだと思ってはいけない。自分だけが損な立場に立たされ、自分だけが悲しい目に会い、自分だけが犠牲を払っているのだという勝手な、利己的な結論をくだしてはいけない。それは自己にとらわれた心、利己的な心からでる考えである。信仰者は常に神を思い、神を見るものでなければならない。神を思い、神を見るものは常に、そこに神が自分の苦しみ、自分の悲しみ、自分の憂いを背負っていてくださるのを発見するに違いありません。神様はいつも私共の重荷を共に背負っていてくださるお方なのです。

 

*寸想*

○正義を行わんとの熱心が、人をして大胆に勇気ある者とならしめる。

○神を敬う心を奪われるな。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、信仰者でありながらまだまだ自分の事にだけ、心がとらわれている者でありますが、いつも神様が共に苦しみ悲しみを背負っておられる事を知る者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


2月26日

聖書 テモテヘの手紙第一 6章 17節

「たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」

「頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、」

 

 財産は必ずなくなる時が来ます。所有物はいつかは他人の手に渡ってしまうのです。死ぬ時は誰もが一切のものを手放さなければならないのです。財産はいつまでも私共と共にあるものではないのです。しかしながら、神様は決して私共から離れ去ってしまうお方ではありませんし、私共を見捨てなさるような事をなさるお方ではありません。この神様は私共を本当の意味で幸福にすることができるお方です。他の物に心を奪われないで神様を信仰をもって心に受けて、静かに不安なく、幸いな生涯を変わりなく送り続ける者であらん事を。

 

*寸想*

○財宝が多くなると傲慢になる。傲慢な人間とは精神的な貧乏人である。

○精神的な貧乏は虚飾によく示される。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共の心に真の幸福感を与えるものは物でも宝でもなくて神様であることをもっともっと深く教えてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月27日

 聖書 使徒の働き 21章 14節

「主のみこころのままに。」

「主のみこころがなりますように」

 

 信仰者にとって何が一番喜ばしい事であろうか。何が一番幸福感を与えるのであろうか。真の信仰者にとっては、神様の御心が自分の生活を通して成される事が最上の喜びであり、幸福なのであります。神様の御心、神様のお考えはどうあるにせよ、とにかく、自分の願い、自分の希望を成就したいと考えるのは真の信仰者の態度ではありません。また自分が願っている事が必ずしも自分の幸福になるとは限りません。それで神様はしばしば信仰者の希望通りには事をなさらないことがあります。しかし神様は常に真の意味で私共のために最善をなしておられます。喜んで従いましょう。

 

*寸想*

○自分がしたくないと思うことをしなければならぬ事がしばしばある。それがかえって自分のためによいことであると知れ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共は真に何を願うべきかも知らない者です。ただ御心に従います。あなた様の御心のみが私を通し成されますように、イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


2月28日

聖書 コリント人への手紙第一 7章 32節

「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。」

「あなたがたが思い煩わないように、と私は願います。」

 

 思い煩うとは平安を失うことである、また喜びを失い、確信を失うことである。何かある事に捕われてしまい、その事による心配が、心を病的な状態においていることを示している。思い煩うということは決して健全な精神状態ではない。これは信仰者にはあるべきではない姿である。なぜならば信仰者は、なにがあるにせよ思い煩う必要がないように、神様を信じ、神様の約束を与えられているからです。思い煩いが起ったらすぐ祈りなさい。神様が心から思い煩いを取り去ってくださるまで、しばしば祈りなさい。短い時でよいから熱心に祈りなさい。神様は思い煩いを取り去ってくださいます。

 

*寸想*

○思い煩うとかえってよい考えが出ない。

○心を静めて祈り、よく考えよ。

○他人のためにも熱心に祈る者となれ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も思い煩うことなく、何事もお祈りをなし、神様におまかせして明るく一日を過ごすことができるようにしてください。イエス様の聖名によってお祈りいたします。アーメン

 


2月29日

聖書 ヨハネの手紙第一 1章 7節

「もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

 

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」

 

 もし私共が、何かの時に、聖霊によって、聖書の真理を良心にあてはめられ、反省をうながされた時に、これに従ってゆくならば、神との交わりを持ち続けることができます。また信仰者相互の交わりも、保つことができます。これはキリストの血(キリストの十字架の死の結果)によるのであります。また、キリストの血は「すべての罪」から私たちを現在、きよめることができるのであります。死ぬ時になって、きよめられるのではありません。この「すべての罪」からきよめるのを「全ききよめ」と言います。

 

*寸想*

○クリスチャンになっても、全くきよめられていない人達がいる。

○キリストの血によって、今、全くきよめて頂きたいものである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様。私共の罪を赦すだけではなく、全くきよめてくださると約束しておられることを感謝します。私共のすべての罪を全くきよめてください。聖名によってお祈り致します。アーメン