『みちの光』

インマヌエル綜合伝道団 大阪伝法キリスト教会牧師 朝比奈寛著

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

                 (詩篇119篇105節)

6月1日

聖書 コリント人への手紙第二 3章 18節

「私たちはみな………主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。」

「私たちはみな………主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。」

 

 「栄光から栄光へと」とは何という素晴しい御言でありましょうか。これがクリスチャンの姿であります。私共が信仰的に正しい態度を持ち続ける時、このことが具体的に私共の事実となるのであります。人間は罪を犯し、神様に背いてからは、真の栄光を失ってしまいました。そして真の栄光でないものを求め、それを誇りとしています。しかし主イエス様を信じることによって私共の生活に真の栄光の輝きが入り始めています。更に栄光に向かって進む者であらねばなりません。6月が栄光に進み行く月でありますように。

 

*寸想*

○月日は進む。年齢も進む。しかしながら、信仰が進まなかったら一切無意義。

○信仰者の道は栄光の道である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様の恵みを感謝致します。今日も恵みから恵みに、また栄光から栄光に進む一日でありますようにお導きください。イエス様の聖名によってお祈り申し上げます。アーメン

 


6月2日

聖書 箴言 16章 20節

「主に拠り頼む者は幸いである。」

「主に拠り頼む者は幸いである。」

 

 真に神様に拠り頼む者の心には常に賛美があります。その足は翼があるごとく軽くあります。なぜかならば心に平安の泉が湧き出て尽きないからであります。喜ばしく見えること、悲しく見えること、何が来てもそれは変りません。今日も明日も私共は様々なことにあい、いろいろな問題につき当たるでしょう。しかし神様はすべてのことを知り、すべてのことを支配しておられます。どの問題も神様の御心の中にあるのです。うなだれることをやめ、つぶやくことをやめ、信仰をもって神様を見上げましょう。その名を呼び、心から祈りましょう。神様の約束によって心をかためましょう。その時、神様は光を心の中に与え給います。

 

*寸想*

○神様の前に心を開くことを学べ。

○祈りの中において神を真にとらえよ。

○神をとらえた者には常に確信がある。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あわれみの中に今日まで私共を守り支えてくださいましたことを感謝致します。いよいよ心を定めてあなたさまに拠り頼む者にしてください。イエス様の聖名によりお祈りします。アーメン

 


6月3日

聖書 詩篇 64篇 10節

「正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。」

「正しい人は主にあって喜び 主に身を避けます。」

 

 神様を信ずる者は今日のことについても明日のことについても思い煩わない。ただ目前のなすべき仕事と義務を喜びと感謝と勇気をもってなし続けるのであります。信仰者はなまけ者であってはなりません。なまけ者とは役に立たぬこと、無駄なことを考えたり、空想したり、思い煩ったりして時間をむだに過ごしてしまう人のことをいうのです。信仰者は祈ってアクマが投げ込む心配な思いや、取り越し苦労を心から投げすて、明るい心をもって毎日の仕事をなし、その結果は全く神様にまかせるのであります。結果を神様にまかせなさい。これが信仰というものです。

 

*寸想*

○自分のなすべき最善を尽せ、あとは神にまかせて思い煩うな。

○まかせたならば一切つぶやくことをするな。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、信じており、お頼りしていながらまだ中途半端なところがある者ですが、心から全くお頼りして動くことがない者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月4日

聖書 コリント人への手紙第一 15章 58節

「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」

 

 苦しいこと、つらいことはただいやなことだとだけ考えてはなりません。信仰者はその中からも益を見出し、教訓を得ることができるはずであります。私共が毎日経験することを無駄にするもしないも、私共の心によって決まることです。その心とは、イエス様を信ずるしっかりしたもの、イエス様のために自分は生きているのだという明らかな人生目的をもった心のことをいうのです。この心は強さと勇気と力を呼び起こし、イエス様のために困難に耐え、誘惑に勝とうとする決意を固めさせます。望みを失わず強く生き、明るく前進致しましょう。

 

*寸想*

○信仰に生きる者は強い。なぜか。それは真に頼るべき者を持つから。

○信仰の威力を日々の生活に発揮せよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日もあなた様を仰いで前進致します。心の動きやすい者、弱い者でありますが、強く立ち、明るく生き、主の栄光をあらわす者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


6月5日

聖書 サムエル記第一 3章 9節

「主よ。お話しください。しもべは聞いております」

「主よ、お話しください。しもべは聞いております」

 

 私共は毎日人間の声を多く聞いています。朝から晩まで私共の耳にひびくのはつぶやき、批評、攻撃、憎しみ、怒り、不平不満の言葉ではないでしょうか。たまには感謝や喜びの声を聞くことはあってもそれは少なく、私共の心に生命を与え、力を与える言葉を真に見出すことはできません。しかし神様が語りかけて下さるのを聞くことができる時、私共の心には力が溢れてくるのを知ることができます。私共は果たして神様の声を聞いているでしょうか。祈りながら聖霊の助けによって聖書の言に触れる時、私共は神様の声を聞くことができます。今日も神様に語って頂き、その声を聞きつつ一日を過ごしたいものであります。

 

*寸想*

○誰に聞くよりも先ず神に聞け。

○神に聞かんとするならば、何でも従う心をもって聖書に向かう必要がある。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共は非常に多く人間の言葉、人間の声に耳を傾けやすい者ですが、心を開きますから聖霊によって私に語りかけてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月6日

聖書 テサロニケ人への手紙第一 5章 5節

「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。」

「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。」

 

 私共信仰者はイエス様を信じた者でありますから、みな、光の子どもなのであります。暗黒の運命の中を一生涯過ごさなければならない者ではありません。どんなに信仰が弱く、また力がなく、知識が乏しく、何もできないような者であってもイエス様によって光の子どもとなったことに間違いはありません。光の子どもとは、明るい将来を迎えようとしている者です。罪と亡びの生涯から救い出され、神様の愛と恵みの中に置かれている者のことを言うのです。私共は皆、光の子どもですから罪と汚れから身と心を守り、神様の祝福を妨げぬように注意して日々の生活をなすべきです。

 

*寸想*

○光の子供は明るさを常に失わない。

○物の見方が明るいか暗いか。光の子どもは一切に神を入れて考える。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共を暗い運命から救い出していてくださることを感謝致します。光の子どもらしい生活を送らせてください。イエス様の聖名によって感謝してお祈り致します。アーメン

 


6月7日

聖書 ゼカリヤ書 4章 10節

「だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。」

「だれが、その日を小さなこととして蔑むのか。」

 

 神様が与えてくださった小さい恵み、それを軽く見てはいけません。人間の目には小さく見えるかも知れませんが、それは決して小さいものではないのです。信仰者がそれに対してどんな態度をとるかによって結果はちがってきます。昨日も無事であったことはあたりまえのことのようであり、今日も元気で目が覚めたこともたいしたことではないようです。けれどもその中に隠されている神様の恵みを思い、平凡なことに対して心からの感謝を神様にささげる時、やがて小さい種は大木となるでしょう。神様の恵みはいよいよ大いなるものであることが分かり、心から感謝の生活が送れます。

 

*寸想*

○平凡こそ大いなる恵みである。

○親は寝ている子の世話をするが、子は自分の知っていることにだけ感謝する。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様から多くの恵みを受けておりますが、自分がありがたいと思えることだけについて感謝しようとする我ままな心を取り去ってください。聖名によって祈ります。アーメン

 


6月8日

聖書 蔵言 16章 32節

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

「怒りを遅くする者は勇士にまさり、自分の霊を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

 

 自分と気の合った人と生活していくことは容易であります。それは誰にでも気持ちよくできることであり、信仰があっても、なくてもできることでしょう。しかしながら気むずかしい人や頑固な人、または私共と全然意見がちがう人や手にあまるようなことをする人とともに、心の平和を失わないで生活していくには大いなる力と恵みが必要であります。単にがまんしていくのではなく、明るく温かく生活していくには神様からの愛と恵みが必要であります。心に神様からの恵みをたたえて、明るく忍耐をもって一日を過したいものであります。

 

*寸想*

○聖書はいう「愚かなる者は怒り易し」

○信仰者は感情や気分によって生きず、信仰によって生きる者である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共の心に今日も新しく聖霊を注ぎ、明るさを失わず生活し、ふれる人々に恵みを与える者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月9日

聖書 イザヤ書 50章 10節

「暗やみの中を歩き、光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。」

「闇の中を歩くのに光を持たない人は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。」

 

 「我々が暗きにあゆみ、天つ光を仰ぐことができぬ時、かかる時こそ神に信頼してその御名によりすがるべきである」とA・M・トプレディーは申しました。信仰者は時々トンネルに入った時のように信仰の道にありながら、気分が重く、心がさえず、生活の中に光がないように感じられることがあります。しかしトンネルから出るには、レールの上を走り続けることが必要であるように、神様を信じ、その心を動かさずに信仰の道を進み続け、祈りも聖書を読むことも、集会出席も平常の通りやり続けるならば、間もなく光の中に出られます。

 

*寸想*

○人生には朝があり夕がある。昼があり夜がある。それでよいのである。

○神を信じる者には一切が益となる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、信仰の道に入った者として、何があっても動かぬ、変わらぬ心をもって進み続ける者にしてください。イエス様の聖名によって感謝してお祈り致します。アーメン

 


6月10日

聖書 詩篇 18章 28節

「主、私の神は、私のやみを照らされます。」

「私の神 主は 私の闇を照らされます。」

 

 仕事がうまくいきませんか。心配なことが心に重くのしかぶさっていますか。身も心も生活に疲れ切ってしまったように感じられますか。自分自身の無力さに、つくづくいやになってしまいましたか。病気のために前途が暗くなったように思われますか。希望がくずれてしまいましたか。何もかもだめになったように見えますか。悲しみと怒りと憂いの波が激しく心に押しよせていますか。そのまま神様を仰ぎなさい。その御名を呼び続けなさい。神様に今の自分の心をありのまま申し上げなさい。何でも言いなさい。神様は必ずあなたの心に光を注いで力づけてくださいます。

 

*寸想*

○自分の考えや感じや気分に合っても合わなくても、神を真とし、その約束に頼りつづけるのが信仰である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、ただあなた様を仰ぎます。弱い信仰ながらただよりすがります。光を注ぎ、力を与えて信仰の道を間違いなく辿らせてください。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン

 


6月11日

聖書 詩篇 138篇 3節

「私が呼んだその日に、あなたは私に答え、私のたましいに力を与えて強くされました。」

「私が呼んだその日に あなたは私に答え 私のたましいに力を与えて強くされました。」

 

「私は自分の弱さを知っています。しかし主イエス様は私の力です。私は罪深い者です。しかし主イエス様の罪の赦しを悟った時、私の心には恵みが溢れました。今はただ平安が心にあります。主イエス様が共に在し給うがゆえに」とF・R・ハバーガルは歌いました。神様は祈る者の声を聞き、必ず必要なる助けを与えてくださいます。神様は切に求める者の願いに答えて、必ず力を与え、強くならしめて、感謝の歌を私共の口に歌わしめてくださいます。神様に対する期待と信頼の心を失ってはなりません。必要なのは忍耐の心であります。

 

*寸想*

○疑い、うれいに囲まれる時、仰げ神を。

○雲が多く、太陽が見えなくても、それは太陽がなくなったのではない。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、幾度もあなた様は私共を助けてくださいました。なお信じ仰ぎます。たえず守り、導いてくださるようにお願い申し上げます。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 

 


6月12日

聖書 ヘブル人への手紙 6章 10節

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」

「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。」

 

 神様を愛するがゆえに今日も私共のなし得る奉仕を果たさせて頂きたいものであります。主のために何か私共にできることはないものでしょうか。それがどんなに小さいことでありましても、神様の前には永遠に記念される尊いことであり、多くの結実をもたらすことであります。主に奉仕しようとするならば主を信ずる人々に奉仕すればよろしい。また主を信じていない人を信仰に導くように労すればよいのです。人生をむだにしないようにし、自分のことのためにその大半を使ってしまわないように注意せねばなりません。主のために心から働きましょう。

 

*寸想*

○自分のためにだけ使って満足していると、やがてその使った金銭なり、時間なりに責められる時がやって来る。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共の小さい奉仕をも記念して、永遠の報いを与えんとしてい給うご自身のために、なお一層、労する者とならしめてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 

 


6月13日

聖書 詩篇 46篇 1節

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」

「神は われらの避け所 また力。 苦しむとき そこにある強き助け。」

 

 あなたの周囲のものは皆変わっていくでしょう。つらい仕事はあなたから元気を奪い去り、病気はあなたから健康を取り去ってしまうでしょう。様々な困難が内外から迫ることもあるでしょう。友人の裏切りを経験し、独り淋しい立場におかれることもあるでしょう。しかしながら、もしあなたの心がその中にあっても、しっかりと神様につながっているならば、どんな出来事も心の中にまでは入りこんで来ることはできません。困難があるたびに、いよいよ益々神様によりすがりなさい。神様は必ず力を増し加えてあなたを強め、あらゆる境遇の中において、勝利を得ることができるようにしてくださいます。

 

*寸想*

○神の中に入りこめ、神は一切の中心。

○台風の中に中心がある。この中心は常に晴天で静かである。神の中も同じ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、いろいろな出来事が周囲に起っておりますが、私共はただあなたさまにおすがり致します。私共を守り、祝福の中に置き続けてください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


6月14日

聖書 エペソ人への手紙 3章 20節

「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に。」

「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、」

 

 神様はいつも私共が想像したり考えたりしていることよりもはるかに勝ったことをなし給うお方であります。それで時々神様が私共に与えてくださるものが、お願いしたものと違っているように思えたり、神様の賜物の尊さや価値、またそれが与えられる意味が分からないことがあります。しかしそれを心から感謝して受け、へりくだって神様の御名をあがめ、時を過ごしているうちにすべてのことがはっきりして来て、神様がなさることの素晴らしさが分かります。神様は決して最善以下のことはなさいません。最善のことのみをなし給います。信仰と期待をもって神を見上げつつ進まれんことを。

 

*寸想*

○信ずる者は静かに聞く者である。

○信ずる者は慎重に配慮するものである。

○信ずる者は断固として実践する。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様は最もよいことのみを、私のためになしてくださるお方であります。それゆえ今日もすべてのことを感謝して受ける心を与えてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月15日

聖書 マタイの福音書 6章 28節

「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。」

「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。」

 

 「野の百合は労せず、その定められたわざに満足し、育っていく。彼らはあえて富も位も願わずにやさしく育ち、ほほ笑み、そして力の限りをつくす。その他のことはすべて神にゆだねている」とM・ファーニングアムは申しています。神様に一切をゆだねていることが大切であります。信仰とはそれ以外のものではありません。徹底して神にゆだねた生涯、まかせた生涯を送り、全く神様に支配して頂き、使って頂くのが信仰者の生涯であります。こだわったり、心配したり、取り越し苦労をするのは信仰ではありません。心を決めて徹底的に神様におまかせして生きなさい。

 

*寸想*

○何もかもまかせると心配の種がない。

○そして最善を尽くすと不安がない。

○不安がないのは後悔がないからである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共は何もできない者でありながら、なかなかあなた様にすべてをまかせようとしない者ですが、今日よりすべてをまかせます。御心をなしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


6月16日

聖書 マタイの福音書 6章 30節

「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。」

「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。」

 

 神様は野の草花をうるわしく育て、空の鳥に食物を与えておいでになります。主イエス様は静かに自然の姿をごらんになりながら、そこに深い神の愛とその配慮とを見出しておられました。真に深い洞察、信仰的な目をもって私共の周囲を見るならば、私共はそこに秘められている驚くべき神様の愛と恵みとを発見するでありましょう。どこにも神はおられます。何にでも神の恵みは宿っています。一切は神の愛に包まれていることを知ります。なぜ、私達がこの愛の中におかれていないかのごとく、不必要に心配しているのでしょうか。

 

*寸想*

○不信仰とは神に信頼せぬことである。

○神に信頼せぬ心には不安がある。

○不安は常に不安を生み、人を焦らせる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私共のために愛の配慮をしていてくださることを感謝申し上げます。単純に、へり下ってあなた様にお頼りして生きる者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月17日

聖書 詩篇 52篇 8節

「私は、世々限りなく、神の恵みにより頼む。」

「私は世々限りなく 神の恵みに拠り頼む。」

 

 信仰者は常に神に期待をおきます。信仰者はいついつまでも神により頼みます。これが本日の聖句の語っていることであります。神様により頼むとは神様のあわれみにより頼むということであります。神様はあわれみ深い性質をもっておられます。神様の一切の行動はこの性質から出ているものでありまして、神様のなさる一切のことに深いあわれみが秘められています。そのあわれみとは、深い理解と同情から出る恵みの心、助ける心を意味しているのであります。神様は今日も深い理解と同情を私共に対して持ち、求むる助けと恵みとを豊かに与え給います。恐れる必要はありません。

 

*寸想*

○神を信ずる者は明るく生きる。

○神を信ずる者は常に神のあわれみを疑わずその愛に安息を見出す。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、豊なるあわれみをもって今日も私共を守り、一切のわざわいと悪の攻撃を防いでくださるようにお願い申し上げます。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


6月18日

聖書 詩篇 121篇 7節

「主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。」

「主は すべてのわざわいからあなたを守り あなたのたましいを守られる。」

 

 神様が与えなさるものは喜んでこれを受けなさい。神様が与えなさらないものはこれを得ようとする必要はありません。なぜならばそれは決して私共の生涯に真の幸福をもたらすものではないでしょうから。一切を神様にまかせて静かに神様の導きに従う時、神様は一切の災いから私共を守ってくださいます。すなわち益を受けることがなく、害を受けねばならぬようなことから救い出し、常に益となり、幸いをもたらすことの中に置いて、或いは、教え、或いは訓練して、信仰の成長と充実をはかってくださいます。神様を仰いで大胆に前進しましょう。

 

*寸想*

○神様は私共のために計画を有し給う。

○それは善であり、幸いなものである。

○なぜかならば神様は善であり給うから。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共は前途に何があるかは知りません。ただあなた様に一切をおまかせし、あなた様にお頼り致しつつ進みます。お守りください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


6月19日

聖書 歴代誌第一 22章 13節

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」

「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 

 困難にぶつかった時、ただその困難から逃れようと焦ってはいけない。苦しいことにあった時、何とかすぐに人の助けを求めようとする態度は正しくありません。そんな時、私共はまず祈るべきであります。そして静かに原因を考えるとともに、神様に対する信頼の心を持ち、この問題の中にある時も神様はともにいてくださることに心を深くとどめることが大切であります。そして神様が共にいてくださることを確信する時、私共の心が非常に強められて来ます。弱い心では問題には勝てません。強い心で、恐れないで問題に着手してごらんなさい。勝利は必ず与えられ感謝するに至ります。

 

*寸想*

○自己の力を過信する者は敗者となる。

○自己の弱さを知る者は強くあり得る。

○神に確信の根拠を見出せ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も励ましの御言を与えてくださったことを感謝致します。あなた様を信じ、強く立つ者になることができますように、イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月20日

聖書 コリント人への手紙 第一 10章 13節

「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

 

 神様は私共のために最善しか考えていらっしゃいません。神様は真実なお方であります。信頼することができるお方です。私共をいたずらに苦しめようとなさるお方ではありません。しかし私共の信仰が強められるために必要である時に試練にあうことを許しなさいますが、決して無理な、耐えられぬ試練にはあわせなさいません。また私共のために助けの道、脱出の道をも備えておられます。苦しい事の中で決して失望してはなりません。神様は私共を捨ててはいません。祈りつつ神を仰ぎ、進みましょう。

 

*寸想*

○愛とは甘やかせることを意味しない。

○愛のゆえに、苦い薬を飲ませ、或いは訓練をほどこすことがあるのである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共の周囲に暴風が吹き荒れる時、あなた様は必ず助けとなってくださることを信じます。いよいよあなた様に対する信仰を強めてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月21日

聖書 詩篇 42篇 11節

「神を待ち望め。」

「神を待ち望め。」

 

 私共の心に心配や思い煩いが満ちないように心を守る必要があります。怒りや不満に支配されぬように心がけねばなりません。なぜかならば、それは私共を不幸にばかりするものであって、決して幸福にはしないからであります。事がある時、すぐ神様を思い、神様の約束のことばに心を向け、祈りの中に一切を投げ込んでごらんなさい。心が安らかになるまで時間をかけて祈ってごらんなさい。祈りの力を実験してごらんなさい。その時始めて神の力を知ることができ、人生の一切のことの中で、神様を待ち望むということ、すなわち神様に期待をおくということの尊さが分かってきて、信仰が堅くされるでありましょう。

 

*寸想*

○三十六計、祈るにしかず。

○祈りの力をもっと生活に活用せよ。

○神は呼び求むる者を待ってい給う。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、もっともっと、本気であなた様にお頼りし、事ごとに祈って神様の力を体験することができる者にしてください。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


6月22日

聖書 詩篇 31篇 15節

「私の時は、御手の中にあります。」

「私の時は御手の中にあります。」

 

 私共は何でも自分でやらねばならないと思ってはなりませんし、何でも自分でできるとうぬぼれてはいけません。私共には自分のできることと、できないことがあります。それゆえに考えていろいろと計画を立て得ることと、そうでないこと、むしろいろいろと計画を立てることによってかえって愚かとなり、不信仰に陥ることとがあります。あることは私共の手に任せられてありますが、あることは神様の手に任せておかねばならぬことがあるのです。自己の生命の問題、将来のこと、子供のことに関しても、自己の手に任せられていない範囲のことは祈って、あれこれと思い煩わずに神様にゆだね、平安な心で目前の仕事に励むべきです。

 

*寸想*

○この世のものに捕われると人は弱い。

○一切のものを全くゆだねると人は強い。

○心にはただ平安だけがある。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私の生命も一切もみな、あなた様の手の中にあります。不必要な思い煩いを捨てて、あなた様にお任せ致します。御心をなしてください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


6月23日

聖書 マルコの福音書 11章 25節

「また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」

 

 人に赦してもらいたいと願う人は多くあります。けれども常に赦す心がまえの人は多くありません。包んでいこう、赦していこう、と始めから心に準備をして一日を始めるならば、事に臨んで実行するにあまり困難を感じません。私共は人を赦すのが当たり前なのであります。なぜかならば、私共自身が神様に赦されている者であるからです。赦す心、それは柔らかい心であり、父なる神様と同じ心です。その心を持つ時、神様にお祈りすることは、いとも容易にできるものとなります。

 

*寸想*

○赦す心は真の勝利の秘密である。

○赦さぬ心は敗北の原因となる。

○神の心、それは赦す心である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私どもはあなた様のみ赦しによって今日ある者です。それゆえに人を赦すのは当然です。心から人を赦していく者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月24日

聖書 ルカの福音書 17章 21節

「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

「神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

 

 神の国、それは神の愛の支配するところであります。そんな国はどこにあるのでしょうか。それは遠い未来において実現するものなのでしょうか。そうではありません。イエス様は神の国はあなた方の中にあると仰せられました。心に神の国の王であるイエス様を信じ受け入れた者の心はすでに神の国でありますし、その人々がきよい交際をなすところにも神の国はあるのです。信仰者が真に家族の者を愛して共にいる時、そこに神の国はあるのです。神の国は幸福の国です。喜びの国でおり、平安の国であります。それは遠い将来に見ることができる国ではなくて、現在の生活の中に見ることができる国なのであります。

 

*寸想*

○神の国は単なる理想の国ではない。

○幸福の国は我らの中にある。

○感謝せよ。それが神の国の入り口である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、もっと真実に愛を働かせて、小さいことにも愛を行う者にしてください。そして神の国をそこに見て、心から感謝する者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月25日

聖書 エペソ人への手紙 6章 11節

「神のすべての武具を身に着けなさい。」

「神のすべての武具を身に着けなさい。」

 

 信仰者は戦士であります。義と不義、善と悪との戦場において戦うところの勇者であります。キリストと悪魔との戦う場に、キリストの陣営に属する者として、十字架の旗の下に立っている者なのであります。戦う者は当然、武器を必要とします。それは自己を守るものであると同時に味方を助け、敵を破るためのものであります。私共は果たして神の武具をもって武装しているでしょうか。神の言は剣であります。これは攻撃に力を有するものであります。信仰は盾のようなもので、身を守るに大切なものであります。祈り、これは無線の連絡で神よりの助けを得るのに必要なものです。これらをしっかりと身につけていましょう。

 

*寸想*

○剣はさびていないか。聖書を読んでいないと剣はさびてしまっている。

○神との祈りの連絡を断絶させるな。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共はあなた様の陣営に属する兵士として召された者であります。今日も武器を活用して、勝利の一日を送らせてください。イエス様の聖名によりお祈りします。アーメン

 


6月26日

聖書 詩篇 32篇 8節

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」

「私は あなたが行く道で あなたを教え あなたを諭そう。 あなたに目を留め 助言を与えよう。」

 

「クリスチャンの完全の絶頂は、ただ忠実に、少しの時も怠らないで、導き給う大指導者なる神に従っていくことによって達せられる。この指導者はあなたの毎日の生活上の小さい事にまで、一歩ずつ行くべき道を教え給います。そしてあなたがただこの指導に身をゆだねることを、あなたのなすべきこととして求め給います。」とH・W・Sは書いています。神様は教えてくださいます。聖書を通し、説教を通し、証しを通し、聖霊を通し、摂理を通して導いてくださいます。何に従うにまさって神に従いなさい。これほど確かなことはありませんし、これほど幸福なことは外にありません。

 

*寸想*

○神の声を聞く者となれ。

○心の耳を働かせ、心の目をもって見よ。

○神は教え、語り、導いてい給う。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、ただあなた様の導きに従い教えを受け、その通りに進みますから、お約束のごとくに教え、導き続けてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


6月27日

聖書 ローマ人への手紙12章12節

「望みを抱いて喜び」

「望みを抱いて喜び」

 

 信仰者の特色は「喜び」を失わないということにあります。聖書を見ますと、信仰者はいろいろなことによって喜びを得ることができると書いてあります。罪赦された喜びがあり、聖徒の交際の喜びがあり、奉仕の喜びがあり、患難をも喜ぶ喜びがあり、聖霊による喜びがあり、信仰による喜びがあります。この他にも多くありますが本日は「望みを抱いて喜び」という御言を与えられました。信仰者は神を信ずる者でありますから、人間的には絶望のように見える中でも、神を信ずることによる望みをいつも持っていることができます。そして望みが真に心に握られると必ず喜びを生み出します。今日も望みによって喜びなさい。

 

*寸想*

○喜べ。感謝せよ。神を讃美せよ。

○気分で喜ばずに信仰によって喜べ。

○喜びは事情や境遇によるものではない。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様の約束が実現されることを信じ、それを望み、感謝をし、喜んで今日も進みます。信仰的な喜びを常に失わない者にしてください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


6月28日

聖書 使徒の働き 24章 16節

「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」

「私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」

 

 多くの人は人間に対する心と、神様に対する心との間に違いがあるのに自分で気がついていても、それを余り大したことだと思っておりません。しかしながら、良心の責めのない生活を送ろうとする時は、神に対しても人間に対しても同様でなければなりません。神を愛する純な愛が、また人に対しても注がれるべきであり、神に対する真実が、また人に対しても向けられるべきであります。神に対して良心に責めがないのだから、人に対してはどうでもよい、というわけにはいきません。神に対しても、また人に対しても良心の責めがないように生活するのがクリスチャンの生活なのであります。

 

*寸想*

○良心のとがめなき生活、それは神がともにいまし給う生活である。確信と希望はかかる生活から生れて来る。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様の前にも、人の前にも良心的に責められることのない光の生活、聖霊による生活を今日も送らせてくださるようにお願い申し上げます。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン

 


6月29日

聖書 詩篇 27篇 1節

「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。誰を私はこわがろう。」

「主は私の光 私の救い。だれを私は恐れよう。 主は私のいのちの砦。だれを私は怖がろう。」

 

 「きよき愛に溢るる主よ、あなたこそ私の助け、私を敵より守る住みかです。あなたがともにいてくださる時、私は安らかです。主よ、あなたの御名によって罪ともだえと恥より逃れることができます」とチャ-ルス・ウエスレーは歌いました。心からへりくだってよりすがる者を神様は確かに守り、導いてくださいます。暗黒の中で神様は、私共の光となり、苦難の日の助けとなってくださいます。どんな暴風の中にあっても目を他のものに向けず、神の御名を呼びつつ一切をその御手にゆだねて立つ時、神様の恵みは私共を包み守っています。

 

*寸想*

○信仰とは神に向かう不動の心である。

○不動の心のみが人生の基礎となる。

○神の御言によって心は不動となる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、何にも目をつけず、ただあなた様を仰ぎ望みます。一切を御手におまかせ致します。御心をなしてください。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


6月30日

聖書 コロサイ人への手紙 3章 13節

「互いに忍び合い、誰かがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。」

「互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。」

 

 人間には誰にでも弱点があります。また過失のない人もありません。もし私共が他人の欠点や弱点ばかりに目をつけ、これを攻撃し、あるいは軽蔑し、悪く言っていたならば果たして私共は明るい生活をすることができるでしょうか。私共の心の持ち方によって、私共は他人との関係をどのようにもすることができます。人間と人間との関係は、よくも悪くも自由にできるのです。もし対人関係を良好なものにしようと思うならば忍ぶことが第一に必要です。第二は赦すことです。そしてこれらのことの根源になるものは愛でありますから、キリスト様の愛を受けて生きることが先決問題です。

 

*寸想*

○自分が赦してもらいたい、理解してもらいたい、がまんしてもらいたいと思うように他の人にしてあげればよい。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共の心に今日も聖霊によって愛を注ぎ、愛より出る忍耐と寛容とをもって一日を過ごす者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン