『みちの光』

インマヌエル綜合伝道団 大阪伝法キリスト教会牧師 朝比奈寛著

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

                 (詩篇119篇105節)


12月1日

聖書 ヘブル人への手紙 10章 36節

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」

 

  信仰者は聖書によって神の御心を知る者であり、またその御心を実現するために自分のなすべき分を果たしつつある者であります。神様は信仰者に約束を与えておいでになりますが、その約束は神様の御心を行う者にのみ実現されるのであります。しかしながら私共は時に、神様の約束がなかなか実現されないためにしびれを切らすことがあります。こんなに信仰と服従をもって待ち望んでいるのに、神様はなぜもっと早く約束の成就を見せてくださらないのだろうと考えたりします。けれども聖書は、必要なのは忍耐です、と語ります。信仰とともに忍耐をもってなお進みましょう。

 

*寸想*

○欠点を持っている人間の中にいて、他人の欠点を忍ぶことができないということが、自分を不幸にすることである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、忍耐が必要であると教えてくださいましたことを感謝致します。なお、神様を待ち望み、神様を信じ、神様に従う者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月2日

聖書 マタイの福音書 4章 4節

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」

 

 人間の幸福というものは、一人の人が持つと他の人が持てなくなったり、一人の人が得をすると他の人が損をしなければならないような、物によって与えられるのではありません。パンは人間の生活に必要であります。食物によって人間の肉体は養われます。けれども人間には霊魂があって、これが養われなければ真に幸福な生活というものを送ることはできません。人間にとって他人よりもたくさんのパンを持つことができたから幸福だとは言えないのです。神の言によって初めて真に霊魂が養われ、幸福な生活が送れるのであります。

 

*寸想*

○むさぼる心に真の幸福はあり得ない。

○物に捕われた人間は、人間の本性を失った気の毒な存在である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、霊魂の飢えた心の乏しい人間は、決して幸福ではないことを知ることができました。もっと神の言である聖書に養われることができますように。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月3日

 聖書 マタイの福音書 6章 8節

「あなたがたの父なる神は、あなたがたが お願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

「あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」

 

 神様は何でも知っておられます。神様は私共を愛するがゆえに、私共のために心を用いておられます。特に私共のために何が必要であるかを知っておられます。私共は本当の意味で、自分にとって何が一番必要であるかを知らないことが多いのであります。欲しいと思うものが皆、必ずしも必要なものではないことがあり、時には害をもたらすものであることがあります。しかし、私共のために必要なものを知っていてくださる神様は、それを準備し、また与えてくださるお方であります。神様の豊かな配慮に対して感謝し、神様を父と仰いで生活すべきであります。

 

*寸想*

○神が与え給うた過去の恵みを数えよ。

○神の愛に対し幼児のごとくすがれ。

○知り給う神に一切をゆだねよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様は私共のために心を用い、必要なる全てを準備していてくださることを感謝致します。あなた様に頼り、安らかな心を持つことができますように。聖名によって祈ります。アーメン

 


12月4日

聖書 箴言 4章 11節

「私は知恵の道をあなたに教え、正しい道筋にあなたを導いた。」

「私は知恵の道をあなたに教え、まっすぐな道筋にあなたを導いた。」

 

 信仰の道をたどる時に第一に心を置くべきことは、自分が神様の示しなさる知恵の道を進んでいるかどうかということであります。聖書に示されている神様の教え、指導、命令を知恵の道といいます。なぜかならば、それは真の幸福に人間を導くからであります。そして自分が神様の教えなさる道を進んでいる時には、困難や問題があっても恐れる必要はありません。苦しいことがあるからといって迷う必要もありません。大胆に進みなさい。進んでゆけば必ず道は開かれて行きます。神様を信じ、神様に従いなさい。聖書のことばを信じ、聖書の神に従いなさい。それが知恵です。

 

*寸想*

○真の知恵は謙遜なる者に所有される。

○聖書はごう慢なる者を愚か者という。

○ごう慢と卑下は不信仰の双生児である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様は私共を知恵の道に導いていてくださることを感謝致します。なお恐れずに進みゆく信仰者とならしめてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月5日

聖書 詩篇 31篇 24節

「雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ。」

「雄々しくあれ。心を強くせよ。 すべて主を待ち望む者よ。」

 

 主を待ち望む者とは神様を信ずる者のことであります。神様を信ずる者は神様に期待を置きます。人間にも、周囲にも、物にも、金銭にも真の期待を置きません。それゆえに、それらのものによって失望したり、裏切られたりすることもありません。主を待ち望む者は、いかなる時にも、いかなる環境の中にあっても、神様の約束が必ず成就されることを信じ、常に希望に生き続ける者であります。それゆえに心の中に常に明るさを持ち、力をもって人生のコースを進むことができるのであります。私共も神を待ち望み、いかなる時にも雄々しく、堅い不動の心をもって前進したいものであります。

 

*寸想*

○神を信じて神の力を心に得よ。

○キリストは我が心に宿ってい給う。これが信仰者の幸福の源泉である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私共はただあなた様を仰ぎ、あなた様に望みを置きます。永遠なるあなた様にお頼り致します。心を強くし、堅くしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月6日

聖書 ヨハネの福音書 14章 27節

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。」

 

 イエス様は、心の中に動揺を感じている弟子たちを見て、静かに言われたのがこの御言であります。暗い予感に落ち着きを失っていた弟子たちは、この御言でどれだけ慰めを受けたか分かりません。イエス様が十字架におかかりになる直前の何とも言えない重苦しい空気の中で、弟子たちの心にはイエス様の御一言がどれだけ大いなる力となったことでしょうか。続いてイエス様は短く「神を信ぜよ」と仰せられました。神を真に信じる者の心から、騒がしさがなくなり、恐れが消えてゆきます。心の中に不安があっては、決して勝利の生涯を送ることはできません。神を信じて不安と恐れを追放し、心に平安を確保すべきであります。

 

*寸想*

○キリストに心を支配せしめよ。平安と喜悦がその常態となるであろう。

○心の平安は神が共にいます証拠である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共は目前のことだけを見て、心を動かし、恐れ、不安になりやすい者でありますが、なおあなた様を信じ、強く進む者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月7日

聖書 申命記 31章 8節

「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

「主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」

 

 神様は私共の味方であります。あらゆる問題の中にあって私共を助け給うお方であります。すべての人が誤解し、攻撃しても、神様だけは私共の理解者であり、同情者であります。しかしそれだけではありません。私共の前に行き、困難や問題を切り開いて私共を進ませてくださるお方であります。また私共から決して離れず、いかなる環境の中に置かれている時も私共を捨てることはなさいません。神様は私共を捨てません。どんなに弱く、どんなに不足がちな者であっても。神の愛とあわれみとを堅く信じて、恐れず、疑わずに進みましょう。

 

*寸想*

○進め、恐れずに進め。神ともにいませば。我々が意識してもしなくても、神はわれらを離れずに共にいまし給うのである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日もただあなた様のあわれみに頼り、愛によりすがって進みます。お約束のごとく、私共を離れず、捨てず、守り導いてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月8日

聖書 創世記 28章 15節

「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り」

「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り」

 

 信仰者は、聖書にある神様よりの約束を自分に語りかけられた約束として理解し、これを信じます。そしてこれは正しいことです。今日の御言も神様が孤独なヤコブに語られた約束でありますが、また私共にも与えられた約束であります。神様の方から、わたしがあなたと共にいる、と仰せられているのです。そして私共がどこにいても、何をしている時でも、決して離れることなく常にいると約束しておられるのです。このことを信じましょう。神様が自分と共にいてくださることをしばしば心に思い起こし、神様に感謝の祈りをささげ、疑わず進みなさい。平安と喜びは失われることはありません。

 

*寸想*

○心配が心に来たら、すぐ神を仰げ。

○問題に直面したら、すぐ祈ることをせよ。

○心に神の約束を蓄えることを励め。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私共と共にいてくださり、私も私の家族も皆守ってくださることを信じて感謝します。この信仰をもっと深くしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月9日

聖書 詩篇 115篇 12節

「主はわれらを御心に留められた。主は祝福してくださる。」

「主は私たちをみこころに留め 祝福してくださる。」

 

 神様は私共の親であります。親が子供のことを忘れることができるでしょうか。子供が苦しみ、悩み、悲しんでいる時に、平気で冷淡な態度をとり続けていることができるものでしょうか。とてもそんなことができるはずはありません。神様も同じであります。神様は私共のことを忘れずに常に御心にとめ、私共のために最善のことを計画しておられます。もし私共が心から神様に従うならば、神様の計画は必ず私共の生涯に実現いたします。それは私共にとって祝福であり、恵みであります。神様は私共を祝福し、真の恵みを与えることができる唯一のお方であります。信仰を堅くしましょう。

 

*寸想*

○信仰は段々と成長する。

○信仰の成長は力の成長である。その力は祝福を形成するものである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私共を祝福し、豊かなる恵みに導いて下さい。災いより常に守ってください。神様が必ず守り、祝福して下さることを信じます。聖名によってお祈りいたします。アーメン

 


12月10日

聖書 エレミヤ書 31章 3節

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」

 

 「神の大いなる愛に私はすがります。目に見えない限りない神の愛に。天にも地にも何物にもさえぎられずに。神こそ私のもの、私は神のものです。その愛は私の求める幸福の全てです。」とホレイシャス・ボナーは歌いました。神様は私共を愛しておられます。どんな時にもこのことは変りありません。神様の愛は限りのないものでありまして、一時的な気まぐれな愛ではありません。その愛は犠牲を惜しみなく払うということに示され、また私共に恵みを注ぎ、祝福を与えるということに表されるのです。神様の愛を信じ、神様の愛を受け、愛をもって神に答えなさい。

 

*寸想*

○愛は家庭も環境も変化させる。

○愛は妻をも子をも敵をも変化させる。

○愛は自分自身と運命を変化させる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共のような者を今日も変わらず愛してくださることを知り、心から感謝いたします。もっとあなた様の愛の中に生活する者にしてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


12月11日

聖書 歴代誌第二 29章 11節

「子たちよ。今は、手をこまねいていてはなりません。主はあなたがたを選んでご自分の前に立たせ、ご自分に仕えさせ、」

「子たちよ、今、手をこまねいていてはなりません。主はあなたがたを選んでご自分の前に立って仕えさせ、」

 

 信仰者に対して、聖書はいたる所において「励め」と語っています。一生懸命であること、力を尽くすことは、信仰者にとって大切な特性であります。罪を解決された心は、一つの事に集中することができるようにされています。きよい心は、その全部の力を今しなければならないことに集中して、注ぎ出すことができるのです。祈りは心を集中させるためにも非常に役立つものです。心が一つの事に集中されると「励み努める」ことが自然に行われるのです。信仰者として私共は何をするにしても、怠る者、なまける者の仲間入りをしてはなりません。

 

*寸想*

○わがままな人間とは、自制することのできない人間をいうのである。

○神の力により自制することを学べ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、むだな時間を使ったり、いい加減なことをしたりする事がありませんように。いつも聖霊によって私の良心に語り続けてください。聖名によってお祈りいたします。アーメン

 


12月12日

聖書 詩篇 42篇 5節

「わがたましいよ。…神を待ち望め。」

「わがたましいよ …神を待ち望め。」

 

 心が暗くなる事があり、力が抜けたようになって、何もかも嫌になることもあるでしょう。お祈りをする元気もないようなこともあり、聖書も読みたくない時もあるでしょう。苦しいことが重なったり、悲しいこと、つらいことが海の波のように生活の中に入ってくると失望することもあるでしょう。身体が悪くて何かはっきりしない気分でいる人もありましょう。神様は一番よくあなたの状態を知っておられます。神様は大きな心、愛の心をもって、じっと抱いていらっしゃいます。じたばたしないで心を静めなさい。無理に祈らなくてもよろしい。黙って目をつぶり、自分の心に「わがたましいよ。神を待ち望め。」と静かに語り続けなさい。

 

*寸想*

○信仰の成長が遅いといって焦るな。

○ゆりの花も段々に開いてゆく。

○ただ毎日のなすべきことを忠実にせよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私の心を静めてください。静かな心であなた様を礼拝し、静かな穏やかな心で人に会い、仕事をすることができるようにしてください。聖名によってお祈りいたします。アーメン

 


12月13日

聖書 ローマ人への手紙 15章 13節

「どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。」

「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。」

 

 「私は両の目を天国に向け、希望をすべてかしこにっないでいます。天地を創造された主こそ、たえざる私の助けです」とアイザックーワットは歌いました。信仰者はどんな時にも希望をもって生きる者であります。神様は私共に生きた希望を与えてくださるお方であります。希望に生きる者は常に明るく、喜びと平安とに満ちた生活をすることができます。神様を信ずるとは、神様に希望をつなぐということです。神様を信じて希望を持ちなさい。神様の約束を堅く信じて、希望を強く持ちなさい。

 

*寸想*

○目前の困難にひるんではいけない。

○確信が生まれるまで祈れ、祈れ、祈れ。

○祈りは神の力を呼び下し、困難に向かわせる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、自分を見たり周囲を見ていると、確かな希望を持つことはできませんが、あなた様によって強く希望を持って生きます。私共を助けてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月14日

聖書 コリント人への手紙第一 13章 4,5節

「愛は…人をねたみません。…人のした悪を思わず、」

「愛は…人をねたみません。…人がした悪を心に留めず、」

 

 人間と人間を暖かく結びつけるものは愛であります。人間の愛には欠点がないわけではありませんが、この人間の愛も神様から来たものであります。聖書には「神は愛です」と書かれてある通り、神様は愛の本源なのであります。人間の心には愛がありますが、それは憎しみや怒りと同居している愛であり、利己心によって動かされやすい愛であります。また無知によって簡単に情欲と結びあう低い愛です。しかし神様は聖霊によって私共をきよめ、神様よりの愛を私共の心に注いでくださいます。この愛が心を支配する時、ねたむということや、他人の悪を思うということがありません。他人の過失、誤解を愛で溶かしなさい。

 

*寸想*

○意見の合わない友をも愛は暖かく包む。愛とはおおい包むものであって、冷酷にあばくようなことはしない。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、愛がないから他の人をねたみ、愛がないから人の悪いことを数え上げてあれこれと思うことを知りました。きよい愛を増し加えてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月15日

聖書 テモテヘの手紙第一 6章 12節

「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」

「信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」

 

 つらいことがあるからといって、つぶやくのは信仰のない人のすることであります。人生には困難や試練がつきものなのです。問題のない人生などはあるものではありません。子供にも青年にも夫婦にも老人にも、男にも女にもそれぞれに問題はあるのです。ですから問題があるからといって不必要に心配し、思う通りにいかないからといって怒り、困難があるからといってつぶやいていたら、一生涯それを繰り返さねばならないでしょう。信仰者は困難と戦い、問題を乗り越えて進む者であります。神は力を与えてくださいます。心を強くして信仰をもって前進しましょう。

 

*寸想*

○つぶやくことをやめて祈りをなせ。

○無責任な批評をやめて責任をとれ。

○自己に絶望し、神に希望をつなげ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私共にあなた様の力を与えてください。そして力強く困難を乗り越えて進み、生きがいのある生涯を送ることができますように。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月16日

聖書 ペテロの手紙第一 5章 10節

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神」

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神」

 

 聖書の教え、示している天地の真の神様は、「あらゆる恵みに満ちた神」であります。「あらゆる」とは「一切の」という意味でありますから、私共の信じている神は全ての恵みの神なのであり、この神によって一切の恵みが与えられるのでありまして、他にいかなる神も必要としませんし、また事実、他にこのような神はありません。この恵みの神が私共に永遠の栄光、すなわち、永遠の祝福を与えるために、キリストの救いに召してくださったのであります。私共の運命は永遠の祝福へと決定されたのであります。感謝し、疑わず信仰の道を進みなさい。

 

*寸想*

○神は人間の幸福のみ念願し給う。

○幸福とは神のみのよく知るところである。

○しかし人間はそれを握ることはできる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共はまだまだ信仰に入ったことがどんなにすばらしいことであるのか本当には分かっていません。しかし終りまで進みたいと願っていますから教えてください。聖名により祈ります。アーメン

 


12月17日

聖書 イザヤ書 7章 4節

「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。…心を弱らせてはなりません。」

「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない。…心を弱らせてはならない。」

 

 毎日祈るということは一見すると何でもないことのようでありますが、これは非常に大切なことであり、益の多いことであります。祈る時に私共の心は神を思い、神により頼んでいるのですが、祈りが続けられていますと、この心がいつの間にか自分の常の心の状態となっており、心が平安による深い静けさを経験するようになります。いらいらしたり恐れたりした心が、変わってきているのを発見するでしょう。この静かな落ち着いた心は、力のこもった強い心なのであります。問題にぶつかって初めて悟るほど、大きな心の変化、それは神により頼み、祈ることによってもたらされます。

 

*寸想*

○神の声を聞く者は静かな心を持つ。

○神の声は聖霊によって心に聞こえる。

○神の声は神の言を通して聞かれる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日もすべての災いより守り、あなた様の御心を果たし、栄光をあらわすことができますように導き、静かな心をもって生活させてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月18日

聖書 詩篇 48篇 14節

「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神であられる。神は私たちをとこしえに導かれる。」

「この方こそまさしく神。 世々限りなく われらの神。 神は 死を越えて私たちを導かれる。」

 

 私共の信じている神様は、私共信仰者が人生の旅路において迷うことがないように、正しい指導を与えてくださるお方であります。その指導は神様のことばである聖書によってなされるのであります。もし私共が聖霊の助けを祈り求め、謙遜に聖書を拝読するならば、信仰の道を全うするための適切な指導を十分に受けることができるのであります。神様はいついつまでも私共を捨てず、私共の神となり、父となり、保護者となってくださり、生涯変わることなく終わりまで導いて下さいます。人生の旅の指導者を持つことができたことは幸福なことであります。

 

*寸想*

○指導を受けようと思うならば教えられやすい心、受ける心の態度に出よ。

○従わぬ者に神は次の指導を与えない。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、どうぞ私共を正しく導いてください。私共は教えられましたことに心から従います。従わないで脱線するようなことのありませんように。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


12月19日

聖書 ヨブ記 22章 21節

「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。」

「さあ、あなたは神と和らぎ、平安を得よ。」

 

 信仰のない人々は本当の安心はありません。安心があるように見えても、或いは本人がそう思っていても、何か事件が起こるとすぐに吹き飛んでしまうような薄っぺらな、一時的な安心であります。なぜ本当の安心を持つことができないのかといいますと、神様との間が壊れているからであります。神様と自分との間が、親しい親と子の関係にないのです。否、むしろ神様に対して反抗的であり、神様を無視しているのであります。このような人に、心の底から経験できる平安、どんなことがあってもなくならない平安など、あるはずがありません。しかし信仰者も神様に従わないと、これを失います。神と和らいで平安を持ちましょう。

 

*寸想*

○神と和らぐ道は、イエス様のとりなしに頼り、罪を告白し、捨て去り、神にわびて、神に従う態度に出ることである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私とあなた様の間に「じゃまもの」がありませんように。もし罪と不従順と不信仰がありますならば、悔い改めますから教えてください。イエス様の聖名により祈ります。アーメン

 


12月20日

聖書 エペソ人への手紙 1章 3節

「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

「 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」

 

 クリスチャンはどんな時にも神様を賛美することができます。なぜでしょうか。それは神様をほめたたえる十分な理由を持っているからです。その理由とは何でしょう。それはクリスチャン、すなわち真の神を信ずる者とされたことが、実に偉大な祝福に与っていることであるからです。その祝福が一つ一つ形になって現れてくると、多くの人はなるほどと分かるのですが、信仰者はそれより先に聖書により、神様の約束によって祝福を我がものとして捉えているのです。祝福の道を迷わず進まねばなりません。

 

*寸想*

○親の100万円の貯金通帳をもらった者は、金銭をまだ見なくても喜ぶことができる。信仰者も神に対して同様である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共は信仰者でありながら、まだ十分に自分の受けている祝福が分っていません。聖書によってもっとよくこれを知ることができますように。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月21日

聖書 ヤコブの手紙 5章 11節

「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。」

「見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いだと私たちは思います。」

 

 信仰者にとって大切なものはいろいろありますが、その中のひとつは忍耐であります。クリスチャンの忍耐は、世の中の人の忍耐とその性質が違っています。信仰者は神様を信ずるがゆえに忍耐するのであり、神様の与えてくださった約束を握って待つところから来ている忍耐なのであります。非常に明るい動機から出ている忍耐であって、やせ我慢式の忍耐や、渋面をつくって忍耐するのとは全然ちがいます。神の約束の実現を待つところから来る忍耐は人を強くし、心に希望と喜びを持たせますから、その忍耐は幸福の原因となるのであります。忍耐深い信仰者となられるように。

 

*寸想*

○忍ぶことは実行することによって身につけることができる。小さいことから実行せよ。

○言葉を少なくすることから始めよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様の忍耐を私にも与えてください。真の忍耐のない人間は決して祝福の道を進むことができません。忍耐することを教えてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月22日

聖書 ヘブル人への手紙 12章 7節

「神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」

「神はあなたがたを子として扱っておられるのです。」

 

 神様は信仰者たる私共をご自分の子として扱いなさいます。神様は親の心と思いをもって、私共一切を見ていらっしゃいます。親として切願することは自分の子供の幸福であります。神様は私共が幸福になるようにと、いろいろ教え導いておいでになります。私共は自分にとって何が一番幸福なのか知りません。ですから神様に一切をゆだねて従うことがもっとも賢明な道であります。神様は私共の最善を知り、これに向かって導いていらっしゃるのですから。時に神様は私共をこらしめなさることがあります。わがままな子供を親がしかるように。そんな時にはすぐにへりくだって、神様の御言にしたがって進むべきであります。

 

*寸想*

 子供は時々何もないのに「お母さん」と呼んだりする。心にしみじみと子の喜びを知るために神の名を呼べ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日まで私共を豊かな愛をもって導いてくださいましたことを心から感謝申し上げます。今後も子供として私共を教え導いてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月23日

聖書 歴代誌第一 4章 10節

「私を大いに祝福し、…御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」

「私を大いに祝福し、…御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることのないようにしてください。」

 

 これは一人の信仰者、すなわち神を知り、神を信ずる者の真実な祈りであります。聖書を見ると、神様はこの祈りと願いに答えてくださったと書いてあります。信仰者は誰に願い求めるよりも、神様に祝福を祈り求めるべきであります。大胆に子供らしい単純さをもって神様の恵みを祈願すべきであります。又災いにかかって苦しむことのないように祈るべきであります。最大の災いは罪に陥ることであり、罪の誘惑に破れることであります。真の幸福は罪より遠ざかり、敬虔に神を求めるところにあり、心にキリストを迎えることにあるのです。

 

*寸想*

○真の幸福は利己心を去るところから始まる。この時にのみ幸福を十分に受け、味わうことができるのである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共を今日も大いなる御手を持って守ってください。また祝福の中に私共を、家族を導いてくださるようにお願い致します。主イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月24日

聖書 詩篇 40篇 8節

「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。 あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。」

 

 信仰者にとって最大の喜びの一つは、自分が神様の御心に従っていると自覚し得ることにあります。その時に心には喜びとともに強い確信が与えられます。信仰者にとって確信を持ち得る時が最も力強い時であります。困難や苦痛を乗り越えて強く進むことができるのはその時であります。そしてこの時に信仰者は勝利を握り、心から感謝をすることができるのであります。ですから信仰者にとって第一のことは、自分が神様の御心に従うということであります。そのためには心の中に神様の命令、神様の戒めが握られている必要があります。聖書を読み、神様の御心を知り、従われんことを。

 

*寸想*

○神に従うことに勝利の秘密がある。

○信仰者になって神に従うことを心から喜びとすることができるようになったか。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共の念願は神様の御心に従うことであります。どうぞ聖書を通して私共を教え、導いてください。一切をあなた様にゆだねて従います。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月25日

聖書 ルカの福音書 2章 11節

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」

「 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」

 

 世界中のクリスチャンが心から祝うクリスマスは、今やまさに信仰のない人をも共に参加せしめる全人類的な祝いとなっています。かくも全世界の人々からその誕生を祝われる人は他にはいないでしょう。キリスト様の福音が宣べ伝えられてから二千年の間、キリスト様の誕生は祝されてきました。なぜでしょうか。キリスト様は文字通り全人類の救い主でおいでになるからです。しかしこの救い主はかつてそうであったようにしばしば、今も形式的、表面的にはその誕生を祝われていますが、心の中に王として受け入れられていないことがあります。彼を心中の王として迎えられんことを。

 

*寸想*

○信仰者としてあなたはいったい何を最も感謝しているか。神の愛の最高の実現は神の子の降誕であった。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共が今日、信仰者としての日々を送ることができますのは、イエス様のご降誕によることを覚え、心から感謝致します。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月26日

聖書 詩篇 90篇 12節

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」

「どうか教えてください。自分の日を数えることを。 そうして私たちに 知恵の心を得させてください。」

 

 月日は過ぎてゆく、人も過ぎ、国も変わり、全てのものは移ってゆく。人間は過ぎ行くものの中に生きて、過ぎ行かぬ不朽のものが何かを見分けるようにさせられている。何が変わるものであり、何が不変のものであるかを知ることが知恵である。多くの人は自分が死ぬ者であることを忘れている。信仰者は決して移り変わるものに心を奪われてはなりません。信仰者は永遠の生命を得た者でありますから、不朽のものに目を注いで日々の生活を送るべきであります。やがて私共は皆この地上の生涯を終わる日を迎えますが、その時の備えがあるでしょうか。永遠の希望が輝いていますか。

 

*寸想*

○あわてるのは不用意からくる。

○明日を当てにする心に緩みができる。今日は今日で完結せよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、常に信仰者としての自覚を失うことがないように守ってください。この世のものに捕らわれて、この世が自分の永遠の住まいであるかのごとく思うことがありませんように。聖名により祈ります。アーメン

 


12月27日

聖書 ルカの福音書 12章 29節

「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。」

「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。」

 

 イエス様は人間の尊さについて深い理解をもっておられ、それをさまざまな御言をもって語られました。今日の聖句もその一節であります。人間はただ毎日毎日、何を食べ、何を飲み、何を着るかというような問題にのみ捕らわれ、そのことを思い煩って生活するために存在しているものではないのであります。ある尊い目的のために生存しているのであって、そのために生きてゆくに必要なものは神様が備えておいでになるから、そんなことを思い煩っていないで、もっと本来的なことに心を用いるようにと語られているのです。食べるために生きるのではなく、生きるために食する者であるように。

 

*寸想*

○人間は食物のために存在せず、食物は人間のために存在する。人間は神の栄光のために存在し、神は人間のために配慮す。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、真にあなた様により頼み、心をいたずらに乱さず、静かな信頼の心、恐れない心をもって生活し、神様の愛に憩う者にして下さい。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月28日

聖書 ガラテヤ人への手紙 6章 16節

「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

「この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」

 

 信仰者の生涯は一定の法則に従って送られるべきものでありまして、決して無軌道なものであってはなりません。レールからはずれているのを脱線といいますが、信仰者の中に聖書に書いてある法則に従わないで勝手な生活をしている人がありますが、このような人は脱線した信仰者ということができるでしょう。しかし脱線した信仰者には、神様からの真の平安もあわれみも祝福もあり得ません。法則に従って初めて神様からの祝福を受けることができるのであります。神様は秩序と法則の神であって、でたらめなお方ではないからであります。

 

*寸想*

○信仰生涯とは極めて法則的なものなり。

○信仰とは神の法則に厳密に従うことなり。

○信仰者とは神の法則に生きる者なり。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、聖書に示されている神様のご命令に従って、信仰生涯を忠実に送り、神様が約束しておいでになる恵みと祝福に与かる者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月29日

聖書 ヘブル人への手紙 4章 3節

「信じた私たちは安息に入るのです。」

「信じた私たちは安息に入るのです

 

 信仰者とは神様が約束しておられることを真として受けた者のことであります。それは神の約束を疑わない態度をとることであります。神様の約束のひとつに「休み」というのがあります。これを信仰者が経験すると、心の中に大いなる「平安」をもつようになるのであります。神様と自分との間に不思議な調和を感ずるのでありまして、暴風の中にあって木の葉のように動揺している船を平安な寝所となさったイエス様の心中にあった平安も実にこれなのであります。信ずる者、神様のお約束を真として疑わない者の心中には、他の者が想像することのできない平安が満ちわたるのであります。

 

*寸想*

○キリストの平安が心を支配しているか。

○キリストに心から従っている者は常にキリストの平安を経験する。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共の心はちょっとしたことですぐ動揺したり、恐れや疑いによって乱されたりしやすい者ですが、あなた様の平安と休みを満たしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


12月30日

聖書 ヨハネの福音書 15章 8節

「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。」

「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」

 

 神様は信仰者に何を期待しておられるのでしょうか。それは実を結ぶということであります。実を結ぶということは二つの面において考えられることであります。ひとつは品性の実を結ぶことであり、他は奉仕の実を結ぶことであります。この実を結ぶことができたでしょうか。私共が多くの実を結ぶ時、神様の栄光はあらわされ、私共がイエス様の真の弟子であることが立証されるのであります。品性は高潔になりましたか。奉仕を喜んでいますか。利己心が去った時、この両者の実が多く結ばれるでしょう。

 

*寸想*

○無駄な人生とは神の目から見て結実のないものをいう。人間の目から見て人生を判断していると誤ること多し。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共を更に結実の多い生涯に導いてください。イエス様から離れたら私共に結実はありません。イエス様から離れぬ者にしてください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


12月31日

聖書 ピリピ人への手紙 3章 13,14節

「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、…目標を目ざして一心に走っているのです。」

「うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、…目標を目指して走っているのです。」

 

 私共は1年の最後の日を迎えるに至りました。1月の1日から私共は信仰の道を進んできたのです。神様は私共を守り導いて、今日に至らしめて下さいました。へりくだって心から感謝すべきであります。けれどもこれで一切が終わるのではありません。最後の日はまた、信仰者にとっては次のコースのスタートであります。正しい締めくくりは良きスタートの第一歩となります。良きスタートのためには心が前のものに向けられることが必要です。後のことをくよくよと思ってはなりません。神の前に一切を申し上げ、全部処理して心残りなくこの年に訣別を告げなさい。

 

*寸想*

○信仰は進行に通ずる。前に向かえ。

○前進のためには後に引かれるような心がないことが必要。後を忘れよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、この一年間私共を守り導いてくださったことを感謝致します。今日までの一切の罪と誤ちを赦し、一筋に前進する者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン