『みちの光』

インマヌエル綜合伝道団 大阪伝法キリスト教会牧師 朝比奈寛著

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

                 (詩篇119篇105節)

9月1日

聖書 ピリピ人への手紙 1章 6節

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イェスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」

「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」

 

 「揺るがない平安を私にみたしてください。私が決定しました心を堅く守ってください。私は再びあなた様から離れません。いと高い主の恵みを証しさせるために主は私を召してい給う。朽ちない愛をもって主は私を愛してい給う」とチャールス・ウェスレーは歌いました。もし私共が真実に全心をキリスト様にささげるならば、キリスト様は心の王座を占め、私共の心を最後まで安らかに守ってくださるでしょう。心をキリスト様にあけ渡し、生涯の全指導をキリスト様に仰ぐならば、必ず信仰生涯を全うし、栄光の終わりを迎え得るでしょう。

 

*寸想*

○心を激情や、欲情によって支配されるな。

○心を支配する者が、自己の生涯と運命を支配し、勝利者となることができる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私の心を支配し、あなた様ご自身が心の中に住んでください。そして平安と感謝にあふれた心の持ち主にしてください。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


9月2日

聖書 マタイの福音書 10章 22節

「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」

「最後まで耐え忍ぶ人は救われます。」

 

 信仰の生涯において特に大切なものは忍耐であります。祈りに対する神様の応答を頂くためにも、他の人を信仰に導くためにも、また自分の信仰の成長のためにも、忍耐が必要であります。私共クリスチャンはイエス様を救い主として信じた時救われた者であり、また現在救われつつあるものであり、将来身も霊も全く救われることを期待している者であります。主イエス様と共に栄光にあずからせて頂く時、私共は全く救われた者ということができるでしょう。その時まで忍耐をもって信仰の道をたどるのが信仰者であります。その一歩一歩において、神様は喜びと感謝を経験せしめ、希望に満ちて進むことを許し給います。

 

*寸想*

○わき見をすると足が乱れる。

○忍耐なくしては何も完成しない。

○忍耐をもって一切のものを包め。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も忍耐を学ぶ者にしてください。信仰の力が忍耐力において表されるべきものである事を知ります。なお教えてください。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン

 


9月3日

聖書 詩篇 85篇 12節

「まことに、主は、良いものを下さるので、……」

「主が 良いものを下さるので ……」

 

 聖書全巻を通して私共が知ることができる一つの事は、神様は父なる愛の神であるということであります。神様は父なる神であり、愛の神であるということがいろいろな歴史的な出来事、宗教行事、説教その他を通して語られています。父なる愛の神であることは必ず具体的な姿において示されます。その一つが「良いものを下さる」ということであります。子供が空腹を訴えた時、父親はパンの代わりに石を与えるでしょうか。卵の代わりに蛇を与えるでしょうか。神様は人間の父親よりも更に愛と善意に富んだお方です。今日も「良いものを下さる」愛なる父に私共は単純に祈り、その必要を訴えたいものであります。

 

*寸想*

○「良いもの」とは必ずしも人間的に見て誰にでも「良いもの」と見えるとは限らない。

○神が「良い」とし給うものを受けよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私共を守り、祝福と恵みの道を進ませてください。すべての災いから救い、感謝の一日を送らせてください。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


9月4日

聖書 詩篇 9篇 10節

「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。」

「御名を知る者は あなたに拠り頼みます。 主よ あなたを求める者を あなたはお見捨てになりませんでした。」

 

 神様を尋ね求めるものは決して失望することはありません。神様に拠り頼んで裏切られた者は一人もありません。神様は真実なお方であります。私共が真実に呼び求めるならば必ず答えてくださるお方です。神様を信じ、神様を仰ぎ、神様によりすがって捨てられた者が、かつてあったでしょうか。ありません。これからもありません。神様は今日も変わらず寛容と愛とをもって私共と共にいてくださいます。助けを呼び求めましょう。大胆に祈って神様に必要を満たして頂こうではありませんか。神様を尋ねる者は決して捨てられません。

 

*寸想*

○責任を他になすりつけるな。

○責任を感じないような仕事をするな。

○責任を負わないような「きよめ」はない。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私のような者を今日まで守り導いてくださったのはあなた様の愛のゆえである事を思います。なお教え導いて終わりまで守ってください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


9月5日

聖書 創世記 4章 9節

「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」

「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか。」

 

 何という冷淡な言葉でしょうか。これは兄カインが神様に答えた言葉であります。私は私の弟アベルの番人じゃありませんから、彼がどうなったかどこにいるか知りません、というのであります。しかもこの時、カインの良心はきっと彼にささやいたに違いありません。「それはうそだ、あなたはアベルを殺して土地に埋めたではないか」と。私共に肉親の弟があっても、なくても、自分以外の人に対して果たさなければならない責任を持っています。その人々とは、家族か、友人か、同僚か、後輩か、近所の人か、誰かです。その人々は救いを求めているのです。私共は一体彼らに対してどんな態度をとっているでしょう。

 

*寸想*

○他の人のために労せよ。信仰が生きる。

○犠牲を払え、深い恵みが握られる。

○誰かを信仰に導くことを心がけよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共は誰かの祈り、誰かの犠牲、誰かの涙と汗のゆえに、また神様の愛のゆえに救われました。この事を深く知って他の人のために労する者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


9月6日

聖書 エペソ人への手紙 4章 1,2節

「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、」

「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、」

 

 私共が心に深くとめて置かなければならない事の一つは、私共が神様に召された者であるということです。召されたとは呼び出されたということです。神様はご自分の尊い目的のために私共を呼び出し、私共に恵みを与えてい給うのであります。私共が救いという驚くべき恵みにあずかることができたとは、私共が何かよい事をした結果なのではなくて、神様の一方的な愛によるのであります。それゆえに召された者として、その召しにかなうように生活するのが当然であります。謙遜、柔和、寛容、忍耐、愛……が今日も生活の中に豊かであらんことを。

 

*寸想*

○柔和を実践せよ。寛容を、すなわち人を赦し、受け入れていくことを実行せよ。

○やらないからできないのだ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日、私共の心に謙遜を与えてください。ごう慢な心で人と会うことがないように。また忍耐をもって生活することができますように。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン

 


9月7日

聖書 ヤコブの手紙 5章 11節

「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」

「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。」

 

 あなたが今、直面している苦痛、悲哀がどんなに深刻なものであるにせよ、それだからといって神には慈愛も、あわれみもないのだと言ってはいけない。その苦しみと悲しみの中にあってなお神様を仰ぎ、神様に心を向けなさい。その時、他の場合には知ることのできない深い神の慈愛を知ることができます。苦しみが深いほど、神を知ることも深くなります。悲しみが大きいほど、神による喜びもまた大きくなります。大いなる悲しみの中にあって更に大いなる神の愛を知り、心が全く変わってしまうのを経験するでしょう。神様に対する信仰と期待をどんな時にも持ち続けてください。

 

*寸想*

○日々祈ることを怠ってはならない。

○必ず聖言によって心を養うこと。

○毎日の養いで信仰は強くなっていく。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私の心にあなた様を信じ続ける信仰を与え、どんな時にもあなた様の慈悲深いことと、あわれみと愛に満ちてい給うことを疑わぬ者にしてください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


9月8日

聖書 詩篇 43篇 5節

「神を待ち望め。」

「神を待ち望め。」

 

 私共は困難な立場に立つことがあり、また悲しみに閉ざされるような経験をすることがあります。また時には知人や友人の中傷や攻撃によって非常な苦痛を味わうこともあります。またある時には、自分の思わない失敗から心が暗くなってしまうこともあるでしょう。希望通りに事がうまく行かないために気力がなくなり、疲れ切ってしまうこともあるでしょう。しかし、くよくよと思っていないで立ち上がらなければ駄目です。「神を待ち望め」とある通り、神に頼り、神に目をつけて立ち上がるのです。周囲のいかんによらず、神によって立つのです。神の約束を信仰をもって握り、神の能力を信じて心を強くし立ち上がりましょう。

 

*寸想*

○いつまでもうなだれているな。

○問題の解決は心の確立から始まる。

○心の確立は強力な行動に移りゆく。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、困難があり、悲しみがあり、試練が迫って参りますが、ただあなた様を仰ぎ、あなた様の約束を信じて進みます。今日も守り、導いてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


9月9日

聖書 ヤコブの手紙 5章 11節

「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。」

「主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます。」

 

 苦しい境遇の中に置かれる時、悪魔はすぐに信仰者の耳に、「神様なんかあてにならない。神様は決してあわれみ深いお方ではない。もし慈悲深いお方であるとしたならば、どうしてあなたがこんなに苦しまなければならないのか理由が分からないではないか」とささやきます。始めの間はそのような言葉を退けていても、何度も聞かされているうちに、つい心がその言葉に引かれてゆきます。私共が毎日聖書のおことばによって神様の声を聞く必要があるのは、このためです。神様は決して冷淡な、無慈悲なお方ではありません。神様に対する信頼を堅くして今日も進みましょう。

 

*寸想*

○神は徹頭徹尾、愛なるお方である。

○その一切の行動は愛より出ている。

○神の愛を疑わず、神の愛に憩え。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も変わりなく真実でいらっしゃるあなた様を仰ぎ、その慈悲とあわれみの中に住む者とならしめてください。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


9月10日

聖書 マタイの福音書 5章 9節

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」

「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

 

 信仰は神様と人間との間に平和を回復するものであります。罪を犯して神様にそむいた私共は、キリスト様の十字架の身代わりを、私のためのものであると信じ受けることによって、神様のもとに帰り、神の子とされたのであります。そして心の中には神様に対して平和を持つようになりました。この平和が他の人に対して向けられる時、私共は「平和をつくる者」といわれるのであります。家族に対して平和を与える者、友人、知人関係に平和をもたらす者、同僚との間に平和をはかる者、それが神の子であります。争いの種をまかず、平和の種をまく神の子の一日であらん事を。

 

*寸想*

○平和は心の中から始まる。

○表面だけの平和は真のものではない。

○しかし表面からでも始めた方がよい。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、真の幸福は平和をつくる心にあることを教えてくださいましたことを感謝致します。今日も平和をつくる者でありますように。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


9月11日

聖書 詩篇 56篇 3節

「恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。」

「心に恐れを覚える日 私はあなたに信頼します。」

 

 「泣いている私に細い声が聞こえました。愛する者よ、少しも泣く必要がないのにどうしてもだえ、失望しているのか、なぜ将来の事を思い過ごして泣くのか、明日負えばよい心の荷を、無駄に今日負うつもりでいるのか」と、H・S・サットンは右のように歌って私共に教訓を与えています。確かに信仰生涯においては様々の問題にぶつかり、いろいろな課題に囲まれる事があります。けれどもその時こそ信仰を働かすべき時であり、また神様の力を経験すべき時なのであります。心に心配や不安あるいは恐れを感ずるならば、すぐ神に祈り、その心を神様に打ちあけて助けを求むべきであります。

 

*寸想*

○幼児を見よ、困ったらすぐ母親のところへ走ってゆく。こわい事があればすぐ母親の名を呼ぶ。信仰とはこれだ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、豊かなる恵みをもって今日も私を守っていてくださるあなた様を信じ仰ぎます。どんな時にもすぐあなた様に寄りすがる者であらしめてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


9月12日

聖書 イザヤ書 38章 14節

「主よ。私はしいたげられています。私の保証人となってください。」

「主よ、私は虐げられています。私の保証人となってください。」

 

 信仰者に来る苦しみは、罪から来る苦しみではないはずです。また「怠慢」や「でたらめ」の結果として来る苦しみではないはずです。それよりも信仰のゆえに受ける苦しみがあります。家族の者の無理解やあるいは友人の誤解、知人のあざけりなどであります。また信仰者であるがゆえに受けなければならぬ損失もあるでしょう。こうした中にある時、信仰を捨てようと思いますか。ちょっとの苦痛のために永遠の特権を捨てるような愚かな事をしてはなりません。そのような時こそ、私共は信仰を堅く持って祈るべきであります。神様は、苦しみと私共との間に入って、私共のために防波堤のごとき務めを果たしてくださいます。

 

*寸想*

○神に対する希望を捨ててはならぬ。

○可能性は決してなくならない。

○忍耐をもって自分の立場を守り抜け。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、豊かな守りの中に私共を今日まで育て導いてくださいましたが、なお、迫り来る嵐の中において私共の守護者となってください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


9月13日

聖書 詩篇 1篇 3節

「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」

「その人は 流れのほとりに植えられた木。 時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」

 

 詩篇の第一篇には神様に祝福される人とはいかなる者であるかが、はっきりと書かれてあります。それは心から神様を恐れ、神様に従い、その御言を常に心にとめている人であると書かれています。そのような人はどうなるのかということが本日の冒頭の聖句に述べられている内容です。神様に祝福される人の特色を一言でいうと、「何をしても栄える」ということであります。栄えていく生涯、そのなす所がみな、神様に祝福されるというのであります。私共はみな神様に祝福される一生涯を送るために、信仰の第一歩を踏み出した者であります。

 

*寸想*

○祝福は神より来る。

○人間は祝福を造り出すことはできない。

○しかし祝福の条件を守ることはできる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様は私共を祝福するために私共を信仰に導いてくださいました。私共が祝福の道からはずれることがないように守り教え導いてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


9月14日

聖書 ルカの福音書 9章 23節

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」

 

 「キリストの十字架を負うということは一時に何か目覚ましい活動をすることではない。全く我々に好ましくない小さい義務を絶えず実行してやまないことである」とJ・H・ニューマンは申しました。十字架を負うとは、キリスト様の心をもって生きることであります。父なる神様の御心に従い、好む好まぬにかかわらず、神様の御心の実現のためにのみ生きてゆくのであります。愛に生きて、自己の利欲に生きないのであります。しかしかかる生涯は暗く冷たい生涯ではなく、真に心から感謝と満足をもって生活する事ができる生涯なのであります。

 

*寸想*

○十字架を負う者は己の利を求めない。

○十字架を負う者は己の誉を求めない。

○十字架を負う者は己を喜ばせない。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、イエス様を信じ、イエス様に従う生涯に入った私共は十字架を負う生涯に入った者であります。毎日喜んで十字架を負う者にしてください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


9月15日

聖書 コロサイ人への手紙 4章 2節

「目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。」

「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。」 

 

 信仰者はまず感謝する者であります。何を始めるにしても、感謝をもって始める事を忘れてはなりません。一日の仕事を開始する時も、用事のために外出する時も人に会う時もまず何より先に、神様に対する感謝の心を持っていることが大切であります。感謝の心を失わぬように注意する必要があります。そのためには信仰が正常であるかどうか検討しなければなりません。こんな態度が目を覚ましていることであります。信仰を正常なものとするためには、祈りが常になされていなければなりません。祈りを怠っているのは、信仰が正常でないしるしであります。祈りを励みましょう。

 

*寸想*

○神に対し、人に対し、物に対し感謝の心を失わぬ者は祝福の道をたどる。

○祝福を現実化するのは祈りである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日まで守ってくださったことをまず感謝致します。感謝の心を持ち、信仰的な注意深さと祈りを励みながら幸いな毎日を送る者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


9月16日

聖書 コリント人への手紙第一 16章 13節

「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。」

「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。雄々しく、強くありなさい。」

 

 私共は様々の境遇に置かれます。いろいろな事件や問題に直面致します。また激しい試練に襲われることもあるでしょう。貧も迫り、病気も来るでしょう。私共はこれらのものと戦い、これに打ち勝って進むべき者であります。しかし、これらのものに打ち勝って進むためにどうしても必要なものは、力であり、心の確かさであり、強さであります。困難に勝つものは心の力であり、強さなのであります。その力、その強さは信仰より来ます。信仰は力の泉であります。ですから信仰を守り、信仰を保持することは力と強さの泉を守ることであり、勝利の鍵を握ることなのであります。

 

*寸想*

○短気は敗北の原因となる。

○見えない世界に生きる、すなわち神との交通によって大いなる力を経験せよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、弱い私共を今日に至るまで助けてくださったことを感謝致します。いよいよ信仰を強めて、力強く困難に勝って進む信仰者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


9月17日

聖書 マタイの福音書 6章 10節

「御国がきますように。…」

「御国が来ますように。…」

 

 神様の御心にかなわない事、神様がお喜びにならない事を決して求めず、そのようなものに心を動かしてはなりません。その時、私共の心には間断なく平安があります。この平安の支配する所こそ神の国なのであります。神様の御心にかなう事が願われ、神様に従う事がなされているからこそ、平安があるのであります。そして神様の御心が実現する所は神の国なのであります。神様の国は私共の心にまず実現されなければなりません。そしてそれが外に向かって拡大されてゆくべきであります。やがてキリスト様が来られるならば、文字通り神の国は来るのです。その時を待ち、まず神の国を祈り求めましょう。

 

*寸想*

○神の国とは飲食の国、すなわち欲望の満足の国ではない。

○それは聖霊による喜びの国である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、イエス様は「御国がきますように」と祈る事を教えてくださいました。今日もこの事を祈ります。御国を早く来たらせてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


9月18日

聖書 哀歌 3章 26節

「主の救いを黙って待つのは良い。」

「主の救いを静まって待ち望むのは良い。」

 

 「決してあわててはいけない。私の心よ、まごころをささげて、神様を静かに待ちなさい。神様のおいでくださることが早くないように思われても、決して遅すぎることはないのだから」とある信仰者は申しています。私共の心はちょっとの事で動き、乱れ、いら立って静けさを失ってしまうことがあります。そんな心をもって仕事をする時、果たしてどんな仕事ができるでしょうか。そんな心で人に会ったら、どんな結果を招くでしょうか。決してよい事はありません。信仰者はどんな時でも、心を静かに保つ事を学ぶ必要があります。そのためには祈る事を身につけねばなりません。

 

*寸想*

○静かなる心から勝利と力が来る。

○問題に直面して心が平静であり得るならば、問題はすでに去っている。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、静かにあなた様を仰ぎ、乱れない心をもって生活し続けることができ、思わぬ事にあってもすぐ神様に信頼を向けて、いら立つことのない心をもつことができますよう、聖名によって祈ります。アーメン

 


9月19日

聖書 詩篇 62篇 1節

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」

「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。 私の救いは神から来る。」

 

 失望してはいけない。自暴自棄になる必要もない。何かができないからといって力を落とすこともない。自分の能力が他人と比べて劣っているからといって、暗い気持ちでいる必要はない。問題がなかなか思うように好転しないからといって、あるいは困難が少しもなくならないからといって、気を弱くしてはいけない。まず沈黙しなさい。ぐちや泣き言を止めなさい。心を静めなさい。そして神様に心を向け、神様に目をつけなさい。神様の名を呼び、そのお約束を静かに心の中に思い起こしなさい。神様は信仰をもって仰ぐ者の心に、必ず救いの確信を与え、力強く立ち上がらしめなさいます。

 

*寸想*

○イエスは暴風を静め給うた。今日も心の暴風を全く静め給う。

○静かな心こそ最善の状態である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日もただあなた様を仰ぎます。あなた様の約束を信じ、それに望みを置いて進みます。力を与えて強くならしめてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


9月20日

聖書 エレミヤ書 33章 3節

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」

 

 問題があったら祈りなさい。助けが必要ならば、神を呼びなさい。苦しみが軽くされ、悩みが取り除かれるように求めなさい。祈りは決して不幸をもたらすことはありませんし、不利を招くこともありません。もっと大胆に、もっと自由に、もっとしばしば、もっと熱心に真剣に神に祈りなさい。神様は必ず答えを与えてくださいます。神様からの返事があり、それと共に豊かな恵みと慰めが心に与えられます。さらに今までも知らなかったような大いなる祝福の世界に眼が開かれ、いかに神様が愛に満ちたお方であるかを知るようになるでしょう。

 

*寸想*

○困難を恐れるな、祈ることができるから。

○自己の足りなさによって気を弱くするな。神の力を動かしうるのだから。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、まだまだ祈るべきほどには祈っていないものです。もっと真剣に、もっと本心をもって祈り求める者にしてください。イエス様の聖名により感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


9月21日

聖書 マルコの福音書 10章 44節

「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。」

「あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。」

 

 信仰者は神様のしもべであると共に、すべての人のしもべであります。すべての人のしもべとなるという事は、まずすべての人を愛する事であります。キリスト様の愛はキリスト様を信ずる者の心に流れて来ます。そしてすべての人を愛する者とならしめます。その愛が深くなるに従って、いよいよ真実なしもべとしての生涯が送れるようになります。人を愛する時、その人の最善を願うようになります。そして自分のできることは何でもしよう、自分の与え得るものは何でも与えようと思うようになり、それが実行されるようになります。生徒を教える教師でありながら、生徒のしもべとなることができます。問題は心の中に愛があるか否かであります。

 

*寸想*

○ごう慢な人間はもっとも下賎な人間である。

○謙遜な者は神の国の王者である。

○神の国の王者は一切の人のしもべとなる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、イエス様は心から私共のしもべとなってくださいました。私共もまた他の人を愛し、他の人のしもべとなることができますように教えてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


9月22日

聖書 詩篇 25篇 10節

「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。」

「主の道はみな恵みとまことです。 主の契約とさとしを守る者には。」

 

 私共はみなそれぞれ違う人生の旅を続けています。家庭が違い、性質が異なり、その経歴も同じではありません。神様は私共各人のためにそれぞれの道を備えてこれを進ませていらっしゃいます。もし私共が神様の命令に従い、神様の御言を守るならば、どの人生の道を進んでも、その生涯には神様の恵みとなさけが豊かに注がれるのであります。神様のなさる事、神様のご計画には誤りはありません。勇気をふるって大胆に神様の御言に従ってごらんなさい。そして神様が私共の生涯に何をなさるかを見ようではありませんか。

 

*寸想*

○問題や困難から遠ざかる事によって、幸福は得られるのではない。

○信仰を堅く持ってまっすぐに進め。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共には時々分からないと思われるような出釆事が起こりますが、なおその時も神様を信じ、神様の御心に従う者にしてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


9月23日

聖書 詩篇 31篇 20節

「あなたは彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。」

「あなたは 彼らを人のそしりから 御顔の前にひそかにかくまい 舌の争いから 隠れ場に隠されます。」

 

 神様と共にいる人の心、それは平静であります。神様がその心の中にあって支配している時、平安がその人の生涯の特色となります。何ともいえない静かさが春のそよ風のように、その人の周辺にただよい始めます。信仰が浅い間は人間としても深みが足りません。少しの事で心がいらいらし、平静さを失い、目には角が立ち、声は鋭くなり、舌の争いを止めることはできません。しかし神様を仰ぐことを忘れず、神様の中に自己を置く者は、多忙さの中にあっても平静さを失うことはなく、舌の争いを避けることができるのであります。

 

*寸想*

○月は少しも乱れていなくても、これを写す池の水が乱れていると、月の影は乱れて見える。心も同じ事である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私共の心を守り、また口を守って、舌の争いを避けしめ、むしろ慰めと励ましと望みとを口から出す者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


9月24日

聖書 詩篇 36篇 7節

「神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。」

「神よ あなたの恵みはなんと尊いことでしょう。 人の子らは 御翼の陰に身を避けます。」

 

 私共は毎日、激しい人生の荒波にもまれ、風雨に耐えて生活しています。まさに激しい戦いであります。うっかり油断をすると足をさらわれてしまいます。身体も心も頭も疲れ切ってしまうことがしばしばです。けれども十分に休んでもいられないようなことがあります。この時、身体の故障は一番よく感じられ、具合が悪いと割合に早く処置がなされますが、心は見えませんので、病的な状態になっていてもなかなか気がつきません。しかし、信仰者にとっては、神様を信じ、神様に祈ることができます。この事によって心は平安を得、休む事ができます。信仰をもって心を守り、強めましょう。

 

*寸想*

○心のあり方で一切が決まる。

○同じ物を見ても、心のあり方によって全然ちがったものに見えて来る。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日もあなた様を仰ぎます。弱りやすい心、衰えやすい心に力と生命を注ぎ、信仰によって心を堅くしてくださるように。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


9月25日

聖書 詩篇 23篇 4節

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」

「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。」

 

 神様が今も私共と共にい給うということを、まず信ずることが大切なことであります。時間をさいて心に深く、この事をとらえねばなりません。心を静かにし、神様が一緒にいてくださること、心中に宿ってい給うことを確信したならば、大胆と勇気をもって現在の仕事、今なすべきつとめに着手すべきであります。神様が共にいてくださるという確信を、一日のうち何度か心中に新しく呼び起こし、仕事にあたってごらんなさい。心から平安は去らず、喜びはなくなりません。どんな事件にぶつかっても、少しも恐れることなくそれに応ずることができます。

 

*寸想*

○信仰と生活を分離させてはならぬ。

○信仰を生活せよ。生活を信仰化せよ。

○信仰の生活とは神と共に生活する事。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私と共にいてください。あなた様が私のうちにい給うことを信じます。あなた様が一緒にいてくださるならば何も心配することはありません。聖名によってお祈りします。アーメン

 


9月26日

聖書 詩篇 25篇 4節

「主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。」

「主よ あなたの道を私に知らせ あなたの進む道を私に教えてください。」

 

 「私共は、時に、神の御心とその道に従うよりも、自分たちが勝手に行きたいと思う道を神様が許してくださるようにと祈る事の方が多い」とある聖徒が言っています。神様の導きがよく分からないというのは、神様の導きに従いたくないということであることがある。もし私共が真実でさえあるならば、神様のご指導は分かりやすく、はっきりしたものであります。事を複雑にするのは不信仰であり、不可解にするのは不従順であります。私共は信仰者として常に神様の前に、全く自分自身のすべてを明け渡し、その導きに全く従いますと申し出て、教えられたいものであります。

 

*寸想*

○今知れる事に従う者はさらに教えられる。

○心中に内在し給う聖霊をあがめ、その声に日々従う事を心がけよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様は愚かなるこの者を今日まで導いてくださいましたが、さらに今後とも変わりなく導き教えてくださるように。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


9月27日

聖書 ミカ書 7章 7節

「私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の願いを聞いてくださる。」

「私は主を仰ぎ見、私の救いの神を待ち望む。私の神は私の言うことを聞いてくださる。」

 

 神様は今日も変わり給いません。かつて信仰者の祈りに答えなさったごとく、今も信じて祈る者の祈りに答えてくださいます。その約束し給うた事を、必ず成してくださるのが私共の神様であります。それゆえに失望せず、うなだれずに神様を仰ぎ望むべきであります。神様は私共を救うお方です。過去においても救いのわざをなしてくださったごとく、今も、また将来も、その救いの恵みを与え続けてくださいます。祈りましょう。神様に私共の一切を打ち明け、その助けを求めようではありませんか。必ず神様は私共の祈りに答えてくださいます。

 

*寸想*

○簡単に信仰を捨てるような者となるな。

○信仰は力の源泉であり、神よりの祝福を受けるパイプである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、失望しやすく、心の弱りやすい者でありますが、信仰をもって祈ります。今日も助け、力を与えて祝福の道を進ませてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


9月28日

聖書 ミカ書 7章 8節

「私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。」

「私の敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がる。私は闇の中に座しても、主が私の光だ。」

 

 悪の力は信仰者の敵であります。罪の勢力は、信仰者にせまる敵の軍勢であります。悪魔は実にその総大将であります。私共は時に、敵に破れることがあるかも知れません。しかし神様は必ず勝たせてくださいます。私共は時に、敵の攻撃によって倒れることがあるかも知れません。しかし信仰によって再び、否、何度でも起き上がることができます。私共がもし暗黒の中を進むような信仰経験の時を迎えることがあっても神様ご自身が私共を照らし、私共の進むべき道を示す光となってくださるのです。進め、信仰者よ。神様が私共の味方なのです。

 

*寸想*

○現実問題の中にあって信仰を鍛えよ。

○信仰によって、本当に勝ち抜いて見よ。

○信仰によって、人生の勝利者たれ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、ただあなた様を信じて立ち上がります。あなた様が必ず味方として敵に向かってくださることを信じて進みます。私を敵の攻撃から守ってください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


9月29日

聖書 詩篇 4篇 6節

「主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。」

「主よ どうか あなたの御顔の光を 私たちの上に照らしてください。」

 

 周囲を見ていると、心が暗くなってしまうことがあります。どこにもよい事がないように思われます。人の言葉を聞いていてもそうです。明るい言葉、楽しい言葉、慰め、力づけられる言葉よりは、苦い言葉、傷つくような言葉、不愉快になる言葉を多く聞きます。信仰者はそんな時、どうすればよいのでしょうか。聖書はあきらかに答えてくれます。神様に祈りなさい。神様に目をつけ、神様の語るところに耳を傾けなさいと。そうです。神様を仰ぐのです。神様より来る愛の光は必ず私共の心を照らし、傷をいやし、力を与えるでありましょう。御顔の光を仰ぎましょう。

 

*寸想*

○神よりの愛を感じ、その中にある時、神の守りを感じ、祝福を受けつつある時、御顔の光の中にあるのだ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、恵みの光、慰めの光、導きの光、守りと愛の光、喜びの光を照らしてください。それはあなた様の御顔の光であります。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


9月30日

聖書 ヨハネの手紙第一 3章 18節

「私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

「私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」

 

 言葉だけの愛、それはにせものであります。言葉だけの信仰、それもにせものであります。口だけの真実、それはにせものであります。口だけの祈り、それは神様への冒とくであります。しかし注意しませんと、教会の中に、信仰者の中に、この病気が深く侵入して来るのであります。言葉だけで「愛する兄弟よ」と言い、言葉だけで「信じます」と言い、口の先だけで「アーメン」(真実)と言うのは皆サタンの毒素に害されているのであります。信仰は行為から離れてはありませんし、生活と無関係な信仰などというものもありません。百の愛の言葉よりも一つの愛の行為が大切です。

 

*寸想*

○知っていることを実行しないのは、本当は知っていない証拠である。

○知と行を合一せしめるところに信仰あり。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、信仰者として何かを余計に知ろうとするよりも、今知っていることを実行することに力を注ぐ者にしてください。信仰を生活する者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン