『みちの光』

インマヌエル綜合伝道団 大阪伝法キリスト教会牧師 朝比奈寛著

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

                 (詩篇119篇105節)


5月1日

聖書 ヨハネの福音書 14章 15節

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

「もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」

 

 クリスチャンはイエス様を愛します。イエス様を愛するとはイエス様の人格、品性を愛することであります。イエス様は聖なるお方でありました。それ故にイエス様を愛する人は、「聖」を愛するのでありまして生活、言葉、行動の中に、聖くないものがあればこれを除き去り、聖き生活を送るのであります。またイエス様を愛するものはイエス様の言葉に心から従うのであります。イエス様はそのいましめとして、互いに相愛せよと言われましたが、イエス様を愛するものは喜んでこれに従うのであります。家族を愛し、友を愛し信仰なき人をも愛して生活を送るのであります。

 

*寸想*

○神は永遠なるお方である。その愛もまた永遠であり無限である。この無限なる愛に包まれることを幸福という。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、イエス様は私共を愛してくださいましたから、私共もイエス様を愛するのは当然であります。その愛の故にまた人をも愛するものにしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


5月2日

聖書 マタイの福音書 25章 23節

「主人の喜びをともに喜んでくれ。」

「主人の喜びをともに喜んでくれ。」

 

 忠実なしもべがその主人に喜ばれ、その報いを受けたたとえ話をイエス様はなさいましたが、この聖句はその忠実なしもべに主人が語った言葉であります。そして信仰者も忠実に神に仕えるならば、必ず神様の報いに与かる者となること、また不忠実な者はその報いを刈り取ることを教えられたのでありました。神様に喜ばれるような生涯を送ったものを聖書は勝利者といい、また成功者と呼んでいます。なぜかならば神様がその人の生涯の価値あることを証明されるからであります。神様が喜ばれるのは忠実なしもべであります。忠実とは、神様のために変わらない心を持ちつづけることを意味しています。

 

*寸想*

○忠実ならんと欲するならば、真理なる神の前にまず正直であれ。

○神のもっとも憎むもの、それは虚偽である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、忠実さの乏しいものでありますが、真実にあなた様を愛して信仰の道を忠実にたどりゆく信仰者としてくださるようにお願い致します。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン

 


5月3日

聖書 ローマ人への手紙 12章 11,12節

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、」

「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、」

 

 どんな場所にいても私共は常に、神様のみ業のために、神と共におり、働くことができます。しかしながら順調にことが運ぶように思えないような仕事や、因難ばかりが目につくような立場や、或はとても果たすことができそうにないような責任や問題が生活の中にいくつもいくつも重なってやってくることがあります。けれどもそのような立場に置いたのは神様であることに思いをむけ、神様を信じて大胆に立ち上がり、その問題に向うべきであります。神様にお仕えする目的でその仕事に向かい、望みを持って困難を忍びつつ労する時、神様は必ず栄光と勝利を与えてくださいます。

 

*寸想*

○神のために熱中することができないのは心の不純な証拠である。

○純粋なものは白熱することができる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も神様の御心にかなう一日、心をあつくしてお仕えする一日、望みを持って喜びつつ過ごす一日でありますように、イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月4日

聖書 ガラテヤ人の手紙 6章 2節

「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」

「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」

 

 「あなたが今背負っている荷が重く、つらいですか。そのため疲れ悩んでいますか。その中でなお、あなたが兄弟を助けその荷をともに背負う時、。神様はその荷と共にあなたをもその能力あるみ手を持ってになってくださる。でしょう」とE・チャールズは歌いました。私共は自分が背負っている荷物が大変重いと感ずる時でも、他人の荷物を軽くしてあげることはできるものです。自分が苦しんでいる時でも他人の苦しみを柔らげてあげることはできます。他人の重荷を担うことはキリストの律法を全く守ることになります。なぜかならば、愛は律法の完成であるからです。

 

*寸想*

○周囲の人の苦しみを担う心を失ってはならない。そこに真の愛があり、それが真実の勇気である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共は自分のつらさや苦しさに捕われて他の人のことを考えようとしませんが、その中でなお他人を愛するものにしてください。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン

 


5月5日

聖書 ローマ人への手紙 8章 25節

「もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」

「私たちはまだ見ていないものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。」

 

 信仰者とは大いなる希望をもって人生の旅を続けているものであります。それはキリストのあがないによる宇宙の完成であります。この大いなる希望を持って日々の生活を送っている私共信仰者にとって大切なことは忍耐ということであります。忍耐といっても単に何かをガマンしているというような消極的なことではなくて、希望に輝き、力づけられて喜んで目前の困難や苦痛に耐えていく積極的な態度を意味しています。神様の約束によって保証されている私共の希望は、必ず実現するものでありますから、希望をしっかりもって日々の生活を明るく、力強く送るべきであります。

 

*寸想*

○永遠の希望に生きよ。これを光の生涯というのである。

○忍耐は希望によって支えられる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共に与えられております生ける希望をシッカリと握って、日々の生活の中に光を見出しながら仕事を励む者とならせてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月6日

聖書 ゼカリヤ書 8章 16節

「これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り…」

「これがあなたがたのなすべきことだ。あなたがたはそれぞれ隣人に対して真実を語り・・・」

 

 私共は常にありのままに自分自身をあらわしているでしょうか。私共は自分で語るそのままの者でありましょうか。私共の言葉と心の中で考えていることとは食い違ってはいないでしょうか。真実に生き、真実に語り、決してたくらみをもって虚言を語るようなことはなすべきではありません。信仰者として真実な人、正直な人であるとの印象を他の人に与えるようなものとなっているでしょうか。真実を語る者である時、人は信用するでしょう。これこそキリスト様の教えを飾る、よき証しであります。真実をもって日々の生活を飾る信仰者でありたいものです。

 

*寸想*

○真実は自らその真実さを証明する。

○真実に生きる者は強い。

○うそは性格をねじり曲げてしまう。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、真実に生きる者、真実を語る者、真実なる心の持ち主として強く生きることができますよう、聖霊による神よりの力を与えてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月7日

聖書 詩篇 121篇 5節

「主は、あなたを守る方。主は、あなたの右の手をおおう陰。」

「主はあなたを守る方。 主はあなたの右手をおおう陰。」

 

 チャールス・ウェスレーは「私は大能の陰にいこうた。私の憂いはやみ、私の悩みは絶えた。主よ、私の霊魂はあなたによって支えられています。あなたは全き平和をもって静かに私を守ってくださいました。」と歌っている。真実に神により頼む信仰者に与えられるものは、心中の平安であります。一切の境遇、一切の問題の中にあって神を認め、これにより頼む時、憂いも悩みも雲やきりのように消え去ってしまいます。神様は私共を守り、一切の災いより救い出してくださるお方であることを深く知り本気で祈り、心から依り頼んで平静な心をもって進みましょう。

 

*寸想*

○神の摂理に調和して生きよ。

○真に神を信ずるものは従順と感謝と沈黙をもって内的な生命と力を養う。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私はただあなた様を見上げ、あなた様にお頼り致しますからお約束のごとく、守り支えてくださるよう、お願い申上げます。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月8日

聖書 ルカの福音書 15章 18節

「立って、父のところに行って、こう言おう。」

「立って、父のところに行こう。そしてこう言おう。」

 

 あなたの心に喜びがなく、うなだれているならばどうすればよいか知っているでしょうか。問題が解決しないために心にいら立ちがありますか。誰かの態度が気にいらず誰かの言葉にとげがあって、あなたの心に傷がついていますか。祈っても祈っても一向に神様のあわれみを受けることができないでいますか。奉仕に対する意欲が枯れてしまいましたか。伝道に励み、証しをする積極性を失ってしまいましたか。心も身体も疲れてしまって、何もしたくないというような気分に襲われていますか。あれこれと思い煩わないで、父なる神様の所にゆきなさい。今いる所でありのままの姿で父なる神様にお祈りをしなさい。

 

*寸想*

○神は罪を赦すほど、偉大なお方である。

○神は愛なる父として、信じられ、依り頼まれることを最も喜び給う。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日もあなた様は変りない愛をもって私を迎えてくださり、力づけんとしてくださることを信じます。今、力と助けを与えて強めてください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


5月9日

聖書 ルカの福音書 9章 62節

「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」

 

 困難があるというだけで退くことは信仰者にとってふさわしいことではないし、問題がなかなか解決しないからといって解決の努力を止め、解決の手段を捨ててしまったら、問題はいつまでも解決しないでしょう。信仰の道に進んだのに小さいことでこれを中止することは愚かしいことであります。試験があるからと言って学校をやめ、ちょっと辛いことがあるからといって仕事を変えるのは我がままであり、人間として健全ではない。そこを越えてこそ強くなる。信仰も同じで、しばしば困難を乗り越えてこそ、その力が身について来るものなのです。

 

*寸想*

○前進が信仰を保つ唯一の道である。

○信仰によって問題に勝ち続けよ。

○信仰が現実に力として働いているか。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、アクマはいろいろのことを通して信仰の道から後退させようと致しますが、力を与えて前に向って進むものとしてくださるよう、お願い致します。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月10日

聖書 詩篇 9篇 1節

「私は心を尽くして主に感謝します。あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。」

「心を尽くして 私は主に感謝をささげます。 あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。」

 

 信仰者にとって神に対する正しい態度は、先ず感謝をするということであります。神より受けぬものは何一つとしてないことを悟る時、私共の心には深い感謝の思いがわきおこって来ます。何でも自分でやったのだという浅い考え方から、ものを深く見、考えるようにならなければなりません。その時知ることは、神様より絶大なる恵みを受けているのだということであります。そして心から感謝することができる者とされます。それと同時に他の人々にこの神様の恵みと愛とを語り伝える者となります。感謝を失わぬ信仰者でありたいものです。

 

*寸想*

○神に対する感謝は、人への奉仕となる。

○感謝の心は生活を明るくする。

○感謝の心は美しい笑顔と態度になる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、恵みを忘れないもの、神様のあわれみを忘れないもの、また感謝の心を失なわない者としてください。そして日毎に神様をほめたたえるものにしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


5月11日

聖書 ペテロの手紙第一 3章 4節

「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」

「むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」

 

 クリスチャンの美服は何でしょうか。それは美しい品性であります。クリスチャンの飾りは何でしょうか。それは柔和と平静さでありまず。これは心の中にキリストを迎えてこれを宿す時、必ず出て来る結果であります。そしてこれは神様が貴く扱いなさる宝石であります。この世の一切のものは死の時に、私共は残してゆかねばなりませんが、品性は永遠に私共のものであり朽ちないものであります。永遠の財産、それは品性であります。キリストの品性が私共のものとなるように祈らんことを。

 

*寸想*

○神を敬う心は一切の品徳の根である。

○神を敬う心を信仰という。

○神を敬う心は生活を浄化する。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、朽ちてしまう物、やがてなくなってしまうものに心が奪われて大切な価値ある品性を形成することを忘れることがないように教えてください。聖名によってお祈り致します。アーメン


5月12日

聖書 ナホム書 1章 7節

「主はいつくしみ深く、苦難の日のとりでである。主に身を避ける者たちを主は知っておられる。」

「主はいつくしみ深く、苦難の日の砦。ご自分に身を避ける者を知っていてくださる。」

 

 今日も神を仰ぎ、その前に私共の心を打ち明け、一切のことにおいて神が最善をなし給うことを信じて進み行きたいものです。神は私共を愛し、私共の最善を願っておられるのであります。また一切のことを最善のものとなしうるお方であります。悩みも悲しみも苦しみも、みな神の手によって善なるもの、益あるものとせられます。目前の困難を恐れてはなりません。神に心を向け、静かに信仰を持って進み行く時、神は間断なき守りの手をもって道を開いてくださいます。心中の平安、これが勝利の保証であります。神より来る平安を失わぬように。

 

*寸想*

○自己の意志を神の意志に一致せしめよ。

○親として子供に対して責任を果せ。

○家庭を守るために何をしているか。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、順境の時にも逆境の時にも変わることのない信頼をもってあなた様に従い行く者、信仰の道筋をまっすぐに辿る者としてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月13日

聖書 ヨブ記 1章 21節

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」

 

 ヨブは神に祝された人物でありました。しかし祝福されているから神を信じていたのだといわれるような人物ではなくて、財産がなくなり、逆境に陥ったときにもその信仰は変りませんでした。そして逆境の中で叫んだのが今日の聖句の言葉なのであります。彼の心は神に結びついていたのでありまして、物に結びついていたのではありませんでした。神に信頼をおいていたのであって死にゆく人間をあてにしていたのではありませんでした。神に対する真実な信仰は終わりに彼に前よりも一層大いなる祝福をもたらしたのでありました。私共の信仰はどうでありましょうか。

 

*寸想*

○キリストの与える愛、平安、喜びは、世の悲しみ、苦痛、憂い、辛酸を飲みつくしてしまうことができる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日はヨブの信仰について教えられましたが、彼のごとき信仰、いかなる中にあっても変らぬ信仰を持ち続ける者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月14日

聖書 ヨハネの黙示録 2章 10節

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」

「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与える。」

 

 誘惑も災いも一度、勇敢に対抗していく時、それはかえってある種の幸福となります。避けられぬ試練は特に与えられた勝利と希望への門となるものです。それで常に私共の主であるキリストに忠実であることは、一切のことに対する祝福と勝利の秘密であります。キリストに対して忠実なる者に悩みと苦しみが迫る時、恵みと能力を持ち給う神もまた非常に近くいまし給うのであります。それゆえに信仰のゆえに経験する苦労、重荷、問題を尊重し、その中で信仰と忍耐を十分に働かすべきであります。この時、一切は益とならぬことはなく、祝福と恵みにならぬものはありません。

 

*寸想*

○病の中にある恵みを知っているか。

○肉体の弱さの中で、価値ある何を知るか。

○信仰は苦しみを祝福に変える。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様のみゆるしのゆえに来る苦しみは決してわざわいではなくて、私共にほまれと栄光を与える尊い経験であることを感謝します。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月15日

聖書 出エジプト記 33章 14節

「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」

「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」

 

 信仰者の生涯には意味深い様々なでき事が起こります。強い敵があらわれて攻撃を加えて来ることもありましょうし、また思わないような苦しい立場に立つこともあります。或は大いなる喜びを経験することもあり、勝利の栄冠を獲得するような時もありましょう。しかし一切の中にあって、私共の心の奥底に不断の確信と平安をもたらすものは、神様が私共と共にいてくださることであります。神様が共に行き給う時、いかなる道を歩んでいても祝福は共にあり、平安は共にあり、希望はなくなりません。ただ問題は神様が共に行き給うことができるような信仰生活を送っているか否かということです。

 

*寸想*

○服従の固い志をもって、全く一切を神に明け渡していく時、不思議なほどの平安と喜びを経験することができる。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日私共にとって最も必要なることは、あなた様が共に歩んでくださることです。常に私共と共におり、また心中に宿り続けてください。聖名によりお祈りします。アーメン

 


5月16日

聖書 エペソ人への手紙 6章 10節

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」

 

 信仰者は強くあることを期待されている者です。信仰者は強くあり得る十分な理由を持っています。ですからいかなる時にも強く生き、強く前進すべきであります。しりごみするのは聖き神の前に立つことができないようなことをしていることが原因となっているか、或は将来の何かを苦にする不信仰な、また憶病な心が原因になっていることがあります。いつでも信仰者にとって大切なことは、自分が信仰に堅立していることです。この土台が確かならば必ず力強く立つことができます。主イエス様を仰ぎ、事々に祈り、主イエス様の力を信じて大胆に恐れずに前進すべきであります。

 

*寸想*

○良心の責めがない時、人は強くあり得る。

○神が共にいまし給うことを確信することができる時、人は強くあり得る。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、自分が弱い者であっても主イエス様によって強くあることができることをもっと深く教え、強く立ち、強く生きる者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月17日

聖書 マタイの福音書 6章 24四節

「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。」

「だれも二人の主人に仕えることはできません。」

 

 信仰の道は一筋の道でありますから、あれも信じ、これも信ずるというようなことはできるものではありません。そんなことができる人がいたならば、その人の信仰は本物ということはできません。信仰は趣味や娯楽ではないのです。しかしながら一つ信仰に生きていても、信仰は信仰、生活は生活、と分けている人がいます。何か行事があったりする時には信仰者のように参加しますが、ふだんの生活はその信仰と少しも関係のない生活、信仰のない人と同じような生活を送っています。これではいけません。信仰が生活の中に生かされてこそ真の信仰ということができるのです。

 

*寸想*

○一筋に生きる者は迷わない。

○あれも、これもと思うから失敗する。

○円の中心は一つしかないものである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あれも半分、これも半分というような信仰生活は決して真のものをつかむことができないものであることを知りました。一筋に生きる者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


5月18日

 聖書 マタイの福音書 19章 19節

「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」

 

 信仰者の心に常に養い育てねばならぬものは愛であります。愛は考えていることによって育つものではなくて、実行することによって育つものなのであります。イエス様は先ず隣りの人を愛しなさいと教えなさいました。隣りの人というのは誰でしょうか。私共が触れる人はみな、隣りの人です。家にあっては親子、兄弟、姉妹、夫婦、主僕、などみな互に隣人であります。町の人、村の人みな隣人であります。このほかに人生の思わないできごとのために私共の前に突然放り出されて来る人々、不幸な人、貧困者、病人などはみな、私共の隣人なのであります。愛を失わず、愛の実行を忘れぬ信仰者でありたいものです。

 

*寸想*

○他の人を愛することを知らぬ人はこの世で最も不幸な人である。

○最大の能力は愛から生れるものである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も大切な真理を教えてくださいまして感謝致します。常に私共の隣りの人を愛し、愛の実行に励む者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月19日

 聖書 ヨハネの手紙第一 4章 8節

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」

「愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」

 

 チャールスーウェスレーはかって「私共が互に相愛することこそ、私共が主イエスに属する者であることの証拠であります。願わくは、主よ、私共の心にあなたの愛を彫りつけてください。ただ愛を与えてください。他のことを私は願いません」と祈りました。真実な愛、これがクリスチャンの特色であります。世には慈善家と言われ社会事業家と言われながら、家庭にあって、真実に妻を愛し、子供を愛することをしない人々がいます。愛するということはある時の、ある感情に動かされた心の状態をいうのではありません。神の愛をうけ、それが性質化されたものを愛というのです。

 

*寸想*

○神を本当に知った人とは人に見せるためでなく、自然に愛を実行する人である。

○幸福とは愛の中にだけ存在するもの。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、利己主義が不幸の原因であり、他の人を愛さないことが真の喜びを持つことができない原因であることを知りました。神の愛を心に注いでください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月20日

聖書 詩篇 62篇 8節

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。」

「民よ どんなときにも神に信頼せよ。」

 

 「『主にありて安んぜよ、忍びて彼をまち望め』『神の前に黙せよ、しかして神をして 汝をきたえしめよ』とヘブライの詩人は歌っている。何ものにも動かされず沈着であれ、さらば神は汝を正しき形体に造り上げ給うであろう」と宗教改革者マルチンールーテルは申しました。彼自身、信仰のゆえに実に多くの苦しい経験をしましたが、その中でただ神にだけ望みを置き、神にだけその信頼を置いて大事業を成し就げたのでありました。私共も様々な境遇にあり、苦しい立場に置かれている者もありますが、この中でこそ神に頼り、信仰によって強くしていただいて、勝利と栄光への道を進みたいものであります。

 

*寸想*

○神を真に心に迎えた者の特色はその不断の平安にある。

○真の信頼は真の平安をもたらす。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、いろいろな問題があり重荷と困難なこともありますが、ただあなた様を信じ、あなた様に頼って前進致します。終りまで守り、導いてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月21日

聖書 申命記 33章 12節

「主に愛されているもの。彼は安らかに、主のそばに住まい、主はいつまでも彼をかばう。彼が主の肩の間に住むかのように。」

「主に愛されている者。彼は安らかに主のそばに住まい、主はいつも彼をかばう。彼は主の背中に負われる。」

 

 「いかなることの起るとも、そはみな神のみこころをこそ果たすなれ、主のみふところに深く安らわば、襲う嵐もなどか恐れん」とライトは歌いました。神様が与えなさるものはみなことごとく必要のものであり、神様が拒みなさるものはみな必要のないものであります。神のみ許しがあるがゆえに来る人生の諸経験はみな私共の信仰と人格を強めるに必要なものであります。神様は、様々な人生経験の中で信仰者が倒れてしまわないように守り支え給うお方であります。神の守りを確信して、今日も恐れなく目前の使命を果たすため前進すべきであります。

 

*寸想*

○平安は神がともに在し給う時にのみ与えられる神の臨在の証拠であります。

○何よりも神の臨在を確かめよ。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共を守り、支え、導いてくださるあなた様を信じ、あなた様にお頼りして今日も信仰の道を辿ります。私共と常に共にいてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月22日

聖書 詩篇 91篇 1節

「いと高き方の隠れ場に住むものは、全能者の陰に宿る。」

「いと高き方の隠れ場に住む者 その人は 全能者の陰に宿る。」

 

 どんなわざわいもあなたを襲わないでしょう。どんな災難もあなたの住家に近づいて来ることはないでしょう。これは「いと高き方の隠れ場に住む者」即ち神に全くより頼む人に対して堅く保証されている約束であります。この約束を受けている人には悲しみは災いではなく、病気は決して災難ではありません。神様がそのみ護りのうちに置く人々にとっては一切のものの性質が変って、災難と見えるものが恵みの源泉となるのであります。死も危険も大いなる神様の愛と恵みが力強く働く時となるのであります。

 

*寸想*

○神のこらしめの中にも深き愛とあわれみがあることを信仰をもって受け取れ。

○神への愛は服従によって示される。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、あなた様に心から信頼し深く神様の中に生き、そのみ護りの中にあり続けることができるようにお導きください。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン

 


5月23日

聖書 ピリピ人への手紙 4章 11節

「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。」

「私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。」

 

 使徒パウロは富の中にも貧の中にも、苦境にも順境にも少しも煩わされない信仰による満足と喜びとを持っていた人物でありました。或る人は信仰者として次のような規律をつくりこれによって日々を過したと言われます。

(1)何事をもつぶやくな。

(2)空想される境遇にあこがれるな。

(3)自分の運命と他人のとを比較するな。

(4)明日のことを思い煩うな。明日は神のものであってまだ自分の手には入っていない。人間の悲哀の中で最もいたましいことは取越し苦労をすることである。

私共はどうでしょう。神が備えてくださることを信じて自己の務めに尽くしましょう。

 

*寸想*

○主は仰せ給う「我が恵み汝に足れり」

○主は仰せ給う「持てるものをもて足れりとせよ」と。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、ああだったら、こうだったらとうらやんだり、空想したりしやすい者ですが、神を信じて目前の仕事に力を注ぐ者にしてください。聖名によってお祈りします。アーメン

 


5月24日

聖書 出エジプト記 16章 8節

「あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。」

「あなたがたが主に対してこぼした不平を、主が聞かれたからだ。」

 

 「つぶやくな、黙して、神のみ手に、汝が理解することができないことをすべてゆだねまつれ」とハーゲンバッハは歌いました。聖められた人の一大特性は決してつぶやかないということであります。つぶやくことは特別に私共の向上の歩みをとどめるものであります。私共がもし神の霊の宿っている人を見分けようと思うならば、注意して捜してみてつぶやかない人を選べばよろしい。神の霊の宿っている人は、自分の境遇についても、立場についても、任務についても、自分自身についても決してつぶやかない者であるからです。つぶやかず、祈り、こぼしていないで励みましょう。

 

*寸想*

○己の意志を全く神の意志に従わせる者にとっては決して失敗はない。

○神に対して「けれども」と言うな。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も真理を教えてくださったことを感謝致します。つぶやかずに、むしろ祈り、讃美して、神を見上げながら力強く進む者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


5月25日

聖書 ルカの福音書 16章 10節

「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、」

「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、」

 

 「平凡で興味のない毎日の仕事こそ、私共にとって必要なるあらゆるものが隠されている宝庫である。なぜかならばこれは私共をして自分自身に勝つ者とならしめ、毎日神様により近く進ましめる道であるから」とキーブルは述べています。私共が神様に対して忠実であるか否かは、何か特別な仕事や、著しい任務に於て試験されるのではなくして、小さい、大したこともないような毎日の仕事においてであります。小さい服従をつみ重ねていくことによって忠実さが立証されると共に私共の人格が健全にされ精神的、霊的に進歩するのであります。

 

*寸想*

○忠実な者は正直な者である。

○人間に目をつける時、最も注意すべきはその人が忠実な人か否かである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も小さいことに対して忠実なものにしてください。目前の小さい義務を怠らないもの、なすべきことをキチンとする者にしてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン

 


5月26日

聖書 コロサイ人への手紙 1章11節

「また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、」

「神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように。」

 

 静かに待つということも大切な神様の求めておられる奉仕であります。待つということは真に忍耐心を必要とすることであります。祈りの答を待つこと、神様の導きを待つこと、時期が来るまで前進を待つこと、などは強くなければ、なかなかできないことです。しかも喜んで待っているということにいたっては特にそうであります。動きまわったり危険をおかしたり、人がアッというような仕事をすることの方がむしろ容易であることの多いものです。神の前に静かに忍耐し、喜んで忍び続けることは大事中の大事であります。忍耐の心を失わぬように。

 

*寸想*

○忍耐は最良の信仰の試験である。

○失敗した時、どんな言葉が出るか。

○忍耐とは不平を言いながら待つことでない。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、何か思う通りにならなかったり、計画していたことが遅れたりするとすぐに忍耐心を失いやすい者を今日も助け、力を与えて忍ぶ者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン

 


5月27日

聖書 ヨハネの福音書 7章 37節

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

 

 のどが渇くことのつらさは私共のよく知っているところであります。肉体の渇きもさることながら、人間の心の渇き、霊魂の渇きも、強烈なものであります。人間の心は喜びを求め、安心を求め、幸福を求めてやまないものであります。けれどもその深い内的な渇きをいやすものは何でしょうか。金銭でも名誉でも快楽でもなくてイエス様であると聖書は述べています。イエス様は今も未信者の人々に対してだけではなく、信仰者に対しても「わたしのもとに来て飲みなさい」と招いておられます。渇くならば、不足を感じ欠乏をおぼえるならば少しも遠慮せずに主イエス様に求めるべきであります。

 

*寸想*

○神の恵みに与る資格は渇くことである。

○神の恵みは求める者にのみ与えられる。

○それゆえに渇くものは求むべきである。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、今日も私共を恵みに与からせるために、豊かな備えをもって招いていてくださることを知り、信仰をもって祈ります。天の喜びを与えてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月28日

聖書 エレミヤ書 17章 7,8節

「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。その人は、水のほとりに植わった木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、」

「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、」

 

 神様にお頼りをすることが神様を信ずるということなのであります。人生のあらゆることに神様の助けを祈り求め、神様の助けを確信して、力強く自分のなすべきことを果し続けていくのが信仰なのであります。この時、心には恐れや不安がなく、明るくすべてのことをなしてゆくことができます。これを幸福な生涯というのであります。神様を信じ、神様にお頼りする人は確かに幸福になることができますし、またその生涯は実りの多い生涯、収穫の豊富な生涯となるのであります。恐れず、迷わず一筋の道を進むべきであります。

 

*寸想*

○花を見て美しいと言い、山を見て崇高だという。なぜその奥に神を認めることができないのであろうか。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、心を動かさず常にあなた様によりたのみ、真に幸いなる生涯を送りこれによってあなた様の栄光をあらわす者にしてください。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン

 


5月29日

聖書 詩篇 73篇 25節

「天では、あなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。」

「あなたのほかに 天では 私にだれがいるでしょう。 地では 私はだれをも望みません。」

 

 あの人も去っていく、この友も老いていく、あの知人も病み、この先輩も天に帰っていく、人は変わり、時代は過ぎ、何もかもが流れ去っていくように見える時、私共の心に何か淋しいような、不安なような悲しいような気持ちが湧いてきます。そして最後に目が向けられるのは永遠に変わらない神様に対してであります。永遠なる神/永遠に愛なる神/このお方に私共の一切を委ねて生きる時、不安から全く救い出されると共に、言うことのできない喜びと愛とがコンコンと心中に湧き溢れてきます。そして心から「あなたのほかに私はだれをも望みません」と叫び、力強く生きるものとなります。

 

*寸想*

○目の前のことに捕われて永遠を忘れるな。

○人間は永遠のことを思う存在である。

○神を無視して永遠はない。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、私共の心が変わりゆくものに捕われ、失せてしまうものにおぼれて永遠なるものを忘れることがありませんように教え導いてください。聖名によってお祈り致します。アーメン

 


5月30日

聖書 ヘブル人への手紙 2章 18節

「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」

「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」

 

 何か苦しんでいることがありますか。自分だけが苦しんでいるのだという間違った考えに捕われてはなりません。困ったことがありますか。行き詰まったように感じられますか。それとも何もかにも嫌になってしまいましたか。或は心身が疲れ切ってしまいましたか。イエス様も同じような経験をなさったのです。どこにもイエス様の足跡はついているのです。イエス様も苦しみなさいました。それゆえにイエス様は苦しむ者に対する真の同情者でありまた助け主であります。失望せず、力を失わずイエス様の聖名を呼びなさい。イエス様は必ず力づけ、助けてくださるでしょう。

 

*寸想*

○問題から逃げることばかり考えていないで信仰をもって問題に立ちむかえ。

○苦境は信仰確立の最もよい時である。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、イエス様も苦しみの中を通過して私共と同じような経験をし、私共を理解し、私共に同情して助けてくださることを知りました。今日もご指導ください。聖名によって祈ります。アーメン

 


5月31日

聖書 ルカの福音書 22章31,32節

「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。」

 

 シモンはイエス様の弟子の中で第一番の人物と見られていた人でありましたが、イエス様はアクマが攻撃を加えようとしているから十分注意するように忠告を与えられました。それと同時に彼の信仰がアクマの攻撃によってなくなってしまうことがないように祈ったと仰せられています。何という温かい、また行き届いた言葉でしょうか。イエス様は今も私共の信仰が様々なことによってなくなることがないように祈っていてくださいます。私共も祈りを励み、終わりまで信仰を守り抜く者でありたいと思います。

 

*寸想*

○祈らぬことは最大の油断である。

○聖書を読まぬことは武器を持たぬことと同じである。何をもって敵と戦うのか。

 

*お祈り*

 天の父なる神様、サタンは日夜私共にいろいろな方法をもって迫り、攻撃を加えようと致しますが、イエス様のお祈りのゆえに私共の信仰を守り続けてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン