『みちの光』

インマヌエル綜合伝道団 大阪伝法キリスト教会牧師 朝比奈寛著

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」

                 (詩篇119篇105節)


3月1日
聖書 ヤコブの手紙 2章 8節
「もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。」

「もし本当に、あなたがたが聖書にしたがって、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です。」

 

 人を愛する心、そこに真の幸福の秘密があります。人を愛することができない人、自分のことだけにとらわれている人は決して幸福をにぎることはできないでしょう。人に愛されようと思う前に先ず人を愛する者にならなければなりません。人を愛する
愛は相手の心の戸を開くことができます。好き嫌いを越えて人を愛するのが本当の愛です。これは一切の律法の締め括りであり、結論であります。人を愛さない者は自分に対する神と人よりの愛を拒絶する者です。愛の行為をもって一日を飾らんことを。

 

*寸想*
○信仰の弱れる者を助け支えよ。
○伝道、これは最大の愛の行為である。

○愛とは心の純粋な動機である。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、私にあなた様の愛を与えてください。そして好き嫌いを越えて人を愛し、人のためにギセイを払う者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン


3月2日
聖書 歴代誌第一 28章 9節
「わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。」

「わが子ソロモンよ。あなたの父の神を知り、全き心と喜びの気持ちをもって神に仕えなさい。」


 子供に何を教えるかは両親にとって大きな問題であります。肉体上の親になることは大したことではありませんが、真の意味において親になることは容易なことではありません。親の責任の第一は子供に正しい指導と教育とを与えることであります。教育とは学校教育をいっているのではありません。親として家庭においてなす教育のことを言っているのです。聖書を見るとすぐれた両親達は、自分が先ず神様を信じ、真心から神様に仕えることを教えています。私共は果たして親として子供に神様について模範と教えとを与えているでしょうか。

 

*寸想*
○小さいことにどんな心でのぞむかは私共の性格形成に非常に大きな働きをする。小さいことを決してあなどるな。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、私共が真に子供を愛し子供のために祈り、また子供にあなた様を教え示すことができる者としてくださるようにお願い致します。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン


3月3日
聖書 ヤコブの手紙 1章 2,3節
「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」

「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。あなたがたが知っているとおり、信仰が試されると忍耐が生まれます。」


 忍耐を失ってはなりません。風がはげしく吹きつけるように苦しいことがあるでしょう。いつになったら解決するのだろうかと思いながら長い間、待っている未解決の問題もあるでしょう。早く起き上がりたいと思いながら病床にいる人もいるでしょう。
しかし今の境遇、今の苦しみ、今の悩みをただ逃れようとばかりもがいていないで、ここでこそ忍耐を学び、忍耐を身につけるのだと知って、むしろ信仰と品徳の完成のために、神が与え給うた、形の変った恵みであることを悟り感謝しましょう。

 

*寸想*
○不平を言うことによって幸福は来るか。
○忍耐は喜悦の母胎である。
○忍耐なくして何も完成しない。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、感謝します。忍耐を学ぶことは他の場所、他の時にはできませんが、今こそ、この境遇でできることを知りました。弱い者を助けてください。聖名によってお祈りします。アーメン


3月4日
聖書 詩篇 119篇 71節
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」

「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。 それにより 私はあなたのおきてを学びました。」

 

 悩ましい思いが次から次と生じて、襲いかかって来ても、それに巻きこまれてはいけない。その思いが心の中をかけめぐっても恐れる必要はない。その思いを暴れるだけ、暴れさせて置きなさい。それをじっと見てごらんなさい。幼児が泣いて暴れているようなものです。それに動かされずジッとしているとやがて退散してしまいます。神様からいろいろと練磨されることは私共にとっては恵みなのです。苦しみにあうことによって信仰者は益をうけるのです。苦しみは心の畠を耕す鍬のようなもので、れによって深くされます。

 

*寸想*
○神は我々の心を深く、よく耕して大いなる感謝と喜びの収穫を得せしめるために苦しみにあうことを許す。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、それがあなた様の御心でありますならば、苦しみをも喜んで受けます。神様は無益な、収穫のない苦しみを与えなさらないお方ですから。聖名によってお祈り致します。アーメン


3月5日
聖書 ヨハネの福音書 4章 34節
「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し逐げることが、わたしの食物です。」

「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。」

 

 自分の今やっている仕事を、意味のない、つまらないものであると言ってはならない。信仰者にとっては意味のない仕事は一つもない。部屋を整理することだけでも、靴をそろえることであっても、それを神の御心を行なう好機とすべきであります。怠けないこと、人に奉仕すること、真実であること、明るい態度であること、十字架を負うこと、忠実であることなどは神様の御心であります。あらゆる機会をとらえて神様の御心を行ないたいと思う信仰者にとっては、どの仕事でなければならないということはありません。不平はしばしばわがままからくる。

 

*寸想*
○自分中心に考えるから面倒くさいという気分がわいてくる。

○神を見つめてすべてのことをせよ。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、先ず何よりも感謝をもって一日の仕事を始める者にしてください。すべてのことを通して神様を喜ばせる者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン


3月6日
聖書 マタイの福音書 7章 11節
「あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものをくださら
ないことがありましょう。」

「あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」

 

 神様は私共の父であり、私共を真実に愛しておられる方であります。私共が祈りをささげる時、神様は、父が子供の願いを聞くように、聞いていてくださいます。そして善き物を与えてくださいます。私共に益とならないものは決して与えなさいません。
私共の幸福とならないものは、これを除きなさいます。ですから、神様が何でもかでも、私共の願い通りのものを与えなさらないのは、神の愛が足りないからではなくて、私共を真実に愛しておられるからです。神の愛を疑わぬ信仰者でありますように。

 

*寸想*
○物事を面倒にするのは自分の短気な言葉づかいである。
○自分の気分で他人を不幸にするな。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日もあなた様の愛の中に置かれてある自分を思い、心から感謝いたします。私のため最善を願っておられるあなた様に一切をお任せ致します。聖名によってお祈り致します。アーメン


3月7日
聖書 ピリピ人への手紙 4章 6節
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」


 思い煩うのは既に心の病的な状態であって、正常な心の姿ではありません。祈りは心を神に向けることであって、正常な姿にもどす最善の方法であります。真実な祈りは必ず心に神を迎えるに至らしめます。神が心に入り来る時、さしもの熱病のような、いらだちや不安、あるいはあれこれの欲望は全く静かな服従に変えられてしまいます。祈りなさい。自己の欲求を貫こうとする心が変わって、ひたすら神の御旨にまかせまつる思いに満ちあふれるまで。その時、心には感謝と平安と喜びが泉のようにあふれます。

 

*寸想*
○一切のことの中にあって神を仰げ。
○神を愛し、神を求め、神を慕え。
○前途を開く鍵、それは祈りである。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日も私の心を支配する王として私の心に宿ってください。あなた様が私の心の王となってくださるならば平安と喜びが絶えないことを信じます。聖名によって祈ります。アーメン


3月8日
聖書 ヨハネの福音書 16章33節
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」


 問題と悩みのあるもの、これが人生である。山もあれば深い谷もあるこれが自然界である。雨も降れば、暴風もある、これが天空の姿である。なくならないものに向かって、なくなるように願うことは愚かなことである。人生には悩みがある。これは明白な事実であって、ないと思えばなくなるのだ、というような考えに迷わされてはならない。悩みはあるがこれに勝つ道もまたある。波はあっても船は波を乗り越えて進むように、悩みを乗り越えて進むことができる。それは人生の勝利者であるキリスト様に頼ることである。彼は人生の荒波を乗り越える巨船である。彼に頼れ。

 

*寸想*
○人生は短い。然しながら信仰者は永遠を呼吸している。
○信仰者にとって一切が無駄でない。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、弱い私共でありますが今日もただ勝利者にいます主イエス様にお頼りしつつ、前進致します。力強い御手をもって助け支えてください。聖名によってお祈りします。アーメン


3月9日
 聖書 イザヤ書 43章 1節
「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。」

 

 神様は私共を守り給う。神様は私共を理解し、記憶してい給う。彼は私共の長所も短所も、思想も傾向も皆知ってい給う。悲しみの日も喜びの日にも神は私共を見守ってい給う。彼は私共の希望にも誘惑にも、恐れにも弱さにも同情し給うお方である。私共の気分が快活な時にも、また重い時にも、親しく触れてくださる。神様は私共の倒れんとする時、これを支え、沈まんとする時、そのみ腕にて保ち給う。私共が自分を愛するよりも、なおなお切実に神は私共を愛してい給う。神のものとなった信仰者は何と幸いなことであろうか。

 

*寸想*
○聖霊によって生きよ。毎日毎日は意義があり価値がある。
○信仰の目を開き今日も主の手を見よ。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、私共はあなたのものであり、あなたによって救い出されたものであります。今日も一切をお任せ致します。最善に導いてください。イエス様の聖名によって祈ります。アーメン


3月10日
聖書 詩篇 145篇 18節
「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」

「主を呼び求める者すべて まことをもって主を呼び求める者すべてに 主は近くあられます。」


 チャールス・ウェスレーは「千代の岩なる主よ、我が近くにいてください。あなたがいますならば、あらゆる騒がしい思いは失せ去るでしょう。もだえも、恐れも、憂いも、真昼の太陽の前の雲のごとく消え去るでしょう」と歌いました。今日も神様を呼びましょう。真実をもって呼び求めるならば、神様は私共の近くに来り、私共と共にいてくださいます。神様はご自分を呼び求めさせるために、私共が苦しみにあうことを許しなさることがあります。神は私共に目をとめ、注意深くその愛の配慮をしてい給います。神があたかも死に給うたかのごとき失望からぬけ出て神を呼び求めよう。

 

*寸想*
○今日も主と共にゆけ、いずこも栄光と勝利の場所となる。
○無意識の行為にも神の栄光を顕わせ。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、あなた様は真実に呼び求める者に近づいてくださるお方であることを教えてくださって感謝します。今日も私と共にいてください。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン


3月11日
聖書 詩篇 37篇 3節
「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。」

「主に信頼し 善を行え。 地に住み 誠実を養え。」


 信仰のない人でも結構うまくやっている、という表面的なことを見て、心を動かしてはならない。信仰のない人の方が良心に責められないから楽だ、という考えかたによって、善を行なうことなどは現実社会においては愚かなことだと簡単に決めてはいけない。人間の目は目前のことしか見ることができない。長い先のことを見てい給うのは神であり、一切のことを知り尽くしてい給うのは神である。その神が幸福なる道として語り給うことは、信仰にとどまり、神の御心にかなう善を行えということである。信仰者はわき見をするとつまずいてしまう。一時的な目前のことに捕われず、まっすぐに進まんことを。

 

*寸想*
○創造の始めに、暗黒の中に「光あれ」と仰せ給うた神が共にいまし給う。暗黒の中を行くことを恐れるな。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、私共の心は目前のことや他人のことで動きやすく、そのために信仰も弱りがちでありますが、ただ一筋にあなた様を見上げて進む者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン


3月12日
聖書 ヨハネの手紙第一 4章 7節
「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。」

 「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。」

 

 「落ち着きのある心に、生命の奥義は示されます’神を愛することは徳を愛することであります。救いとは、愛のない利己心から解放されることであります。」とJ・G・ホイッテヤーは申しています。愛のないことは神を知らぬことを示しており、愛のある人は神を知る者であります。私共信仰者は神を信じ、神を知る者であります。ですから当然私共は相互に真実に愛するべきものであります。利己心が衝突と争いと憎しみと、呪いと怒りと不幸の原因であります。神は人間の心から全く利己心を除き愛の人となし、幸福なる人となし給います。

 

*寸想 *

○おのが身を聖霊の宮として聖別せよ。
○聖霊は肉体を活かし、強め、癒し、主のご用に適するものとして用い給う。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、私共は「神は愛なり」ということを知った者であり、神の愛を受けている者であります。この神よりの愛をもって相互に愛しあう者にしてください。聖名によって祈ります。アーメン


3月13日
聖書 ヨハネの手紙第一 1章 5節
「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」

「神は光であり、神には闇が全くないということです。」


 光というものは輝くものであり、ものを明らかに示します。暗さを除き安心をもたらします。神はこのように私共に善きものを示し喜びを与え給います。光はものを明らかに示しますがこれは知識の働きでもあります。神様はすべてのことを知り、どれが誤りであり何が正しいかを示し給います。聖いものと汚れたものとを明示します。光に従い、神に教えられる時、正しい道を進むことができます。光は善を示します。神は善なるお方であります。光はまた暗黒すなわち悪と比較されています。光を受ける人、神を信ずる人は善を受けることができます。光である神を信じ幸福な光の道を進みましょう。

 

*寸想*
○神に従え、やがて何年か後にしみじみと感謝をもって振り返り見る日がある。

○集会場のあなたの空席は誰が満たすか。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、あなた様が光であること、即ち喜びを与え、正しい指導を与え、善を与えてくださるお方である事を感謝致します。なお、光を与えてください。聖名によって祈ります。アーメン


3月14日
聖書 マラキ書 4章 2節
「わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、いやしがある。」

「あなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。」


 信仰者には常に希望がある。希望は生活に光と力とをもたらす。たとえ一時的に暗黒の中をトンネルを通過するように、通らねばならないとしても、永遠に暗黒の中にいるのではない。「義の太陽が上り」とあるように、義しい神がその光を注いで、喜びと感謝を与え給う日が必ず来る。失望してはいけない。今の境遇には未だ光が照らなくても、心に神の恵みの光を受けることができる。その光はやがて全生活、全生涯に輝きをもたらすであろう。いつまでも寒い冬が続くのではない。神の恵みをたたえる春は近い。

 

*寸想*
○教会の切なる祈祷に答えるのは神であるが、神はその答えの実現を教会員たる我々の手に委ねてい給う。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、いつの間にか下を向いてしまいやすい者に、もう一度上を仰ぐこと、神様を見上げて光を受け入れることを強く教えてください。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン


3月15日
聖書 マタイの福音書 6章 25節
「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」

「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。」

 

 思い煩うというのは、無理に自分の心に荷物をのせて苦しめていることを言うのである。身体を大切にすることを知りながら、心をいたわることをしない人が多い。心から荷物をおろすようにすると心は楽になり、思い煩わないで、毎日の仕事に力を出すことができる。あれも、これもと、一人で勝手に心に荷物を積み込んで、苦しみ、思い煩うことは愚かなことである。思い煩わなくても仕事はできるし、生活することができる。思い煩わないと責任を負っているような気のしない苦労性の人間になるな。

 

*寸想*
○愛の一言は空しくは地に落ちず。
○感謝の城を不平軍に占領されるな。
○心を守れ、これが不幸と敗北を防ぐ道。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、もっと神様にお祈りをして心の荷物をおろし、軽く、明るい愉快な心をもって日々の生活をする者にして下さい。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン


3月16日
聖書 イザヤ書 30章 15節
「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る。」


 「今あるものも後にあるものも皆神のもの、神は恵みに満ち給うゆえに我らに足らぬことなし、されば幼児のごとく神により頼め、神の御心は何ものにも妨げられずその大いなる目的に向かって進みゆく」とホイッテヤーは言った。神様の御心は必ず成る。焦らず、慌てず、心を落ち着けて神に従うべきである。何があっても、何が起こっても、心をすぐに神に結びつけて絶対に動乱させぬようにすることが必要である。神を信ずるとは神に依り頼み、任せて、心を平静に保つことを意味する。その時必要なる力は心に注がれるのである。

 

*寸想*
○神を失う者は一切を失っており、神を失わぬ者は何をも失ってはいない。
○神が助け給う人を誰が妨げ得るか。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日も平静なる心、信頼の心をもってすべてのことをなし、することすべてにおいて神に奉仕するのだということを深く心にとめさせてください。聖名によってお祈りします。アーメン


3月17日
聖書 詩篇 6篇 9節
「主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」

「主は私の切なる願いを聞き 主は私の祈りを受け入れられる。」

 

 詩篇の第6篇は悔改詩と呼ばれる詩の第一のものである。悔改詩は詩篇には7つある。32篇、38篇、51篇、102篇、130篇、143篇と6篇とがそれである。これらは皆、神様の前に罪を悔いて出ている魂の真実な祈りである。私共に真実に自己の罪を認め、これを神の前に心から悔い改めて出る砕けた、へりくだった思いがあるだろうか。もしあるならば、神は必ず私共の祈りを聞き罪をゆるし、罪をきよめ給うであろう。疲れたる心をいやし、強め、衰えたる信仰をいかし、新しい気力を起し給うであろう。神は必ず真実に叫ぶ者の声に耳を傾け給う。

 

*寸想*
○信仰者が自己の力に頼る時、神はご自分の手を引っこめなさる。
○天にだけ存在する神は偶像である。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、真実に罪を悔い改め、罪を憎み、罪から離れる者にしてください。罪が私共の確信と力を奪うのです。今日も罪より守ってください。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン


3月18日
聖書 詩篇 33篇 18節
「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。」

「見よ 主の目は主を恐れる者に注がれる。 主の恵みを待ち望む者に。」

 

 私共の信ずる神様は活きてい給うお方でありますから、私共のすること一切を見ておられます。そしてもし間違ったことがある時は良心を通して「いけない」と仰せられますし、もし危険なことがある時には守りの手をのばして私共を安全な道につれていってくださいます。丁度ヨチヨチ歩く幼児を母親が注意深く見ながら、歩かせてその足を丈夫にしようとしているのと同じです。神様は今日もその慈愛のこもった目を私共に注いでおいでになるのですから、何事をも思い煩わず恐れないで信仰の道を進み、すべての仕事に平安な心をもって携わるようにすべきであります。

 

*寸想*
○神は先ず口に満たす食物を創造せずしては、口を創造し給わなかった。
○神の知らぬこと、それはうそをいうこと。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日も私共の上に愛と守りの御目をとめてくださいまして、一切の悪とわざわいから守ってくださるようにお願い申し上げます。イエス様の聖名によってお祈り致します。ア-メン


3月19日
聖書 詩篇 146篇 5節
「幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。」

「幸いなことよ ヤコブの神を助けとし その神 主に望みを置く人。」 

 

 どんな人を幸福な人と言うのでしょうか。聖書には幸福とは何であり、どういう人が幸福な人であるかがはっきりと書いてあります。その一つが今日の聖句であります。真の活きていらっしゃる神様に、真心からお頼りする者が幸福な人だと述べています。自分の期待、自分の希望を神に置く者が幸福な人だというのです。なぜでしょうか。神様は信仰者の期待を決して裏切ることをなさらず、信じ、依り頼む者の祈りに必ず答えなさり、その助けと恵みを与えるお方だからであります。変わるもの、消え去るものを頼みとせず神様に信頼を置く者として一日を送りましょう。

 

*寸想*
○神は試練と怒りを注ぐ時は、注意深く秤量計にかけ給う。しかしあわれみと恵み
を注ぐ時は秤量計にかけ給わない。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日まで私共を導き守ってくださいましたことを感謝致します。なお、いよいよ心をこめてお頼りする者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン


3月20日
聖書 イザヤ書 59章 1節
「主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。」

「主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。」

 

 神様は信仰者の祈りに耳を傾けてこれを聞き給うお方であります。私共が祈る時、誰が聞いていなくても神様が聞いておられ、私共の涙を誰が知らなくても神様は知っておられます。私共が悩みのゆえに助けを願い、問題の解決を願って祈る時、その一言一句は皆神様の所に届いています。不信仰に陥ってはなりません。祈りは無力だというアクマのささやきにだまされてはなりません。神様はその能力ある御手によって必ず、救いを与え、感謝と喜びの日を迎えさせてくださいます。落胆せず祈り続ける信仰者でありますように。

 

*寸想*
○周囲の人々の救いのために自己を用いることの幸福を知っているか。
○祈りによって活ける信仰を立証せよ。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、祈っていながら、時には祈りとは聞かれるものだろうか、と考えたりする信仰の弱い者ですが、もっともっと真に祈る者にしてください。聖名によってお祈りします。アーメン


3月21日
聖書 創世記 22章 14節
「主の山の上には備えがある」

「主の山には備えがある」

 

 信仰の父と言われるアブラハムは神様の命令に全く従いました。即ち、自分の独り子であるイサクをも、神様に対して惜しまずに献げようと致しました。神様はアブラハムの真実な信仰と服従の心をごらんになって、イサクを献げる必要がないようにしてくださり、アブラハムを祝福し、その子孫を恵むと約束してくださいました。アブラハムは全く死ぬような思いをもってただ一筋に神様に従いましたが、その時に知ったことは、神様は真実に信じ従う者のために、一切のものを備えてくださるお方である、ということでした。自分の手で自分の将来の準備をしようとしてもそれは無駄です。神様だけが準備をなし得るお方です。

 

*寸想*
○神は単なる逃れ所ではない。むしろ日々の力の源泉である。
○不信、恐怖、怠惰の源泉は自我なり。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、あなた様は私共のために最も良い道り最も幸福な生涯を準備していてくださるお方です。なお、深い信仰の心を与えてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン


3月22日
聖書 ピリピ人への手紙 4章 19節
「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」

「私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」

 

 神様は一切のものを与えることができるお方であります。私共に救いを与えてくださいました。希望を与えてくださいました。平安と喜びを与えてくださいました。しかし日常生活の問題に関してはどうなのでしょうか。本日の聖句は私共に日常生活の必要なものについても、神様は解決の手を伸ばしてくださることを語っています。私共個人だけでなく家庭のためにも、子供のためにも必要なものを神様は与えてくださいます。しかも栄光のうちにです。何というすばらしいことでしょうか。心配せず、うなだれていないで祈ろうではありませんか。

 

*寸想*
○祈るということは何もしないでただ願ってばかりいることではない。
○真の祈りは、真の活動に人を導く。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、あなた様は私共の日常生活の問題にも心を用い、その乏しい所を補うお方であると教えてくださいました。事ごとに祈る者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン


3月23日
聖書 ヘブル人への手紙 13章 5,6節
「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません』……」

「主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです。ですから、私たちは確信をもって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。』……」

 

 自分は結局、たった一人の人間、孤独な人間なんだ、と思い、その淋しい心に引きずられて、自分の生命を断ってしまう人々があります。しかし人間は自分が一個の人間、独立した存在であることに気がつくことが非常に大切で、これこそ人格の目覚めと言ってよいものでありましょう。かくして初めて常に自分とともにある人格的存在としての神を求め、神を見出すのであります。真の神とは、主の御言のごとく、私共を離れず、また捨てないと仰せ給うお方であります。主は今日もともにい給います。

 

*寸想*
○信仰の前に行き詰まりはない。
○信仰による生活とは、神の言を信じ、これに立脚した生活を言う。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日も私と共に一日の歩みを続けてくださり、守り、教えて、いよいよ深く、あなた様が共におられることを深く知ることができるようにしてください。聖名によってお祈りします。アーメン


3月24日
聖書 詩篇 28篇 7節
「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。」

「主は私の力 私の盾。 私の心は主に拠り頼み 私は助けられた。」

 

 今日も神様を仰ぎ、心に神を迎え入れ、私共の心を全部占領して頂きましょう。心配や不安で心を占領されてはなりません。失望や落胆で心をかきまわされてもいけません。毎日の生活の中で神を仰ぎ、神に祈り、神の約束に心を向け、神に拠り頼んで、静かな心を持ち続けましょう。人が私共の悪口を言っている時、心の中において神の名を呼びつつ静かにその強風が過ぎ去るのを待ち、決して心の中にその人の言葉や態度や姿を入れないように守って頂きましょう。静かな心、これは勝利のしるしであり、神様の助けと守りのしるしであります。

 

*寸想*
○神に思いを集中せよ。
○心を平静に保つために、聖書の言を暗唱し、これを信じつつ繰り返し続けよ。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日もただあなた様を頼り、一日を送ります。心を常にあなた様に向け、他のものによって乱されぬように守り続けてください。イエス様の聖名によってお祈りします。アーメン


3月25日
聖書 ガラテヤ人への手紙 6章 9節
「善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」

「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」

 

「主よあなた様がその智恵をもって定めなさった業を、私が喜び勇んで果たすことができますように、私の働きの上に主の尊き姿を仰ぎ見、主が喜んでい給う御心を拝することができますように」とチャールズ・ウエスレーは歌いました。神様の喜び給うことを行なうことが善であります。今日も神様が喜んでくださるようにとの念願に満たされて、一切の仕事をしたいものであります。誰のためでもない、神様のために、職業に励み、仕事に忠実でありたいと思います。その時、どのように小さい仕事をしているようであっても、必ず大いなる結果を刈り取るに至ることは間違いのないことであります。

 

*寸想*
○何か変わった、珍しいことをするよりも、毎日の仕事を忠実にせよ。
○つまらない、と考えるその心が問題だ。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、善をなしうる喜びを真に教えてください。そしてそれがどんなに小さい善であっても軽視しないでやり続ける者にしてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン


3月26日
聖書 コロサイ人への手紙 3章15節
「感謝の心を持つ人になりなさい。」

「感謝の心を持つ人になりなさい。」

 

 ウイリアム・ロウはかつて次のように申しました。「もしあなたに、あらゆる幸福とあらゆる満足とを得る最も近道でかつ最も確実なる方法を教えることができる人があったならば、その人はきっとあなたに、あなたが会わなければならぬすべての物に関して神に感謝と賛美をささげることを生涯の方針としなさいと言うでしょう」と。感謝の精神、賛美の心は偉大なる奇跡を行うことができます。その精神、その心はいかなる時にも光を仰いで決して心を暗黒に占領されませんし、常に神が最善をなし給うことを信じて最善の労苦をなしつつ、失望、落胆致しません。感謝の心は勝利と栄光の秘密です。

 

*寸想*
○感謝の心というものはいつでも、どこにおいても持ち続けることができる。
○感謝の心をもって人に応対せよ。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日も感謝する者となれ、と教えてくださいましたことを感謝致します。感謝の心を失わぬ者とならしめてください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン


3月27日
聖書 エレミヤ書 1章 8節
「彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」

「彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」

 

 神様は私共と共に今日も一日の歩みを続けてくださいます。悲しみの谷を通る時も、喜びと希望の丘を登る時も同じように一緒にいてくださいます。私共は決して一人でいるのではありません。いつも神様と共にいるのです。それゆえに神様に従って進む道に、何があっても恐れる必要はありませんし、迷う必要もありません。まっすぐに、そのまま静かに進んで行けばよいのです。横道に入らないで、あれこれと思い煩わないでこのまま進んで行きましょう。神様は私共と一緒にいてくださり、守ってくださると共に一切の災いの中から確実に救ってくださるからです。進みましょう。

 

*寸想*
○くよくよと思っていて何か善いことが期待できるだろうか。
○信じて大胆に進みゆけ。一筋に。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、一切をお委せ致しつつ、静かな信頼の心を持って今日も信仰の道をたどります。私と共におり、私を守り、導き、救ってください。聖名によってお祈りします。アーメン


3月28日
聖書 詩篇 55篇 22節
「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。」

「あなたの重荷を主にゆだねよ。 主があなたを支えてくださる。 主は決して 正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」

 

 或るいなかのお婆さんが重い大きな荷物を背負って歩いているのを見た馬車屋が気の毒に思って、お婆さんを馬車に乗せてあげた。ところが馬車に乗ってからもそのお婆さんがウンウンと言っているので馬車屋が後ろを見ると、お婆さんは馬車に乗ったまま、まだ荷物をかついでうなっていたという話がある。馬車に乗せてもらった以上、荷物を背中から下ろしたらよいのに。或る信仰者はこのお婆さんのようである。救われた以上、自分のことは一切、何でも神様に打ちあけて、おまかせするのが本当の信仰者なのであります。

 

*寸想*
○問題がない生涯が幸福な生涯なのではなくて、問題の中にあってそれに煩わされぬ生涯が幸福な生涯である。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、あなた様は私を救ってくださいました。それゆえに今後一切のことをおまかせ致しますから正しくご指導くださるように。イエス様の聖名によって感謝をしてお祈り致します。アーメン


3月29日
聖書 民数記 6章 24節
「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。」

「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。」

 

 今日も要するのは神様の恵みであり、神様の守りであります。神様は恵みを与えることを喜び給うお方であり、信仰者を守ることを光栄とし給うお方であります。なぜならばそれによって神様の聖名があがめられ、感謝と賛美によって栄光があらわされるからであります。心から神様の恵みと守りとを私共のために祈り求めると共に、他の人々のためにも真剣に祈るべきであります。他の人々のためにその祝福と守りとを祈ることは、信仰者の大切な任務でありまして、この目的と使命のために、私共は救われ、祈ることができるようになったのであります。友のために、なお祈らんことを。

 

*寸想*
○神は決して悪をなし給わない。
○他人のために真実にかつ多くの時間を費して祈れるのが愛の証拠である。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日も私共はあなた様の恵み、祝福、守りを必要と致します。健康、職業、信仰を祝福し、また一切の災いから守ってください。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン


3月30日
聖書 ヨハネの福音書 15章 5節
「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」

「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。」

 

 信仰者は実をむすぶことが期待されています。ブドウの樹を植え育てるのはブドウの実を刈りとるためであり、リンゴの樹を育てるのもリンゴの実を収穫するためであります。神様が信仰者に期待をしている実とは何でしょうか。先ず第一は聖霊による品性の実です。愛、喜び、柔和、寛容、節制などはその一部分であります。第二は奉仕(伝道)の実であります。未信者を信仰に導くことであります。家族の者、或は友人を信仰に導くことを神様は願っておられます。しかしながら私共自身がイエス様に堅く結びついている時、信仰が確立している時にだけ、実を結び得るのです。

 

*寸想*
○実は一度にはなるものではない。時間と手入れと肥料が必要である。品性の実、奉仕の実もまた同様である。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、もっともっと品性の点においても、また奉仕の面においても多くの実を結ぶことができる者にしてくださるようにお願い致します。イエス様の聖名によってお祈り致します。アーメン


3月31日
聖書 詩篇 62篇 8節
「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」

「民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」

 

「あなたの心の安静を乱す、どんな憂いも、あなたの思いを波立たせるどんな欲情も、これをみな神様の前に真実にかつ謙遜に、おそれをもって申し上げなさい。そうするならば、いらだちは変わって静かな信頼が心を支配するでしょう。」とある聖徒は申しました。また、P・メランクトンは「困難と当惑とは私共を祈祷に導く。そして祈祷は困難と当惑とを全く追い払ってしまう」と語っています。何でも私共を悩ませ苦しませ圧迫するものがあったら、それが何であるにせよ、天の父なる神様の所に行って真心から訴え祈るべきであります。

 

*寸想*
○事を始めるに当り先ず神に告げよ。
○一切のことを神に知って頂くようにせよ。
○あなたとあなたの心配を一緒に神に置け。

 

*お祈り*
 天の父なる神様、今日も力を与え、信仰を与えて雄々しく進み行かせてください。困難に耐え、喜びつつ明るい生活をなす者にしてください。聖名によってお祈り致します。アーメン