6月26日(日):礼拝メッセージ

 6月26日  礼拝メモ       (T・O)
 マルコ5章21~24、35~43節  
「三つの信仰」   (説教) 朝比奈悦也師

 

 本日は総員礼拝の聖日であるが、年四回もたれる総員礼拝では聖餐式が執り行われることになっている。聖餐に与り、自らの信仰の点検吟味をし、神様の前に正すべきところ、悔い改めるべきところを示されたならば、十字架の血潮を仰いで赦していただき、刷新されて立ち上がるという営みをなすのが聖餐式である。今後、これを覚えて意義深く聖餐式を守らせていただきたい。今日は、聖書が教える信仰、キリスト教信仰とはどのようなものかを3点から学ぶ。

 

一、信じる信仰
 聖書の教える信仰は、信じるべき根拠がある信仰である。今日まで2千年に亘って聖書は様々な角度から批判攻撃を受けてきたが、一点一画も変わることなく宣べ伝えられ続けてきた。このことの中に聖書の確かさを見る。またキリストは、いのちを捨ててまで私たちを愛してくださった。この歴史上の事実の中に、私たちを決して裏切ることのないお方、信ずるに価するお方であることを頷くことができる。キリストは決して疑ったり否定すべきお方ではない。

 

二、信じ続ける信仰
 信じ続けることの大切さ。継続することは容易ではない。今日の聖書箇所、会堂管理者ヤイロが、死にかけている娘の癒しを求めてイエス様のところにやってきた。話し終わらないうちにその娘が死んだとの報が入った。ヤイロは突如、為す術がない絶望状態に陥った。そのとき36節「恐れないで、ただ信じていなさい。(=信じ続けなさい)」とイエス様は語られた。厳しい絶望的な中に立たされたとき、信仰を放棄してしまいやすい。しかしそういうときこそ信じ続けなさいとイエス様は語られる。

 

三、信じ通す信仰
 黙2・10「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう」。

 テモテⅡ4・7「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄

         冠が私のために用意されているだけです。」

とある。信じ通すとき、いのちの冠、義の栄冠が与えられる。この世が与える栄誉・栄華は一時的なものに過ぎない。しかし、信じ通した者に与えられるものは永遠のいのち。信じ通してやがて地上生涯を終えたとき、神様は永遠のいのちをくださるのである。

 

 下半期へ向かうお互い、受洗された方々と共にこの3つの信仰を堅く持って進ませていただきたい。