9月3日(日):礼拝メッセージ

  9月3日  礼拝メモ          (T・O)
  コリントⅠ1章23節   (説教) 朝比奈悦也師
「キリストの十字架」

 

 キリスト教を、また聖書の教えていることを、ひとことで言うとするなら、コリントⅠ1章23節に記されている「十字架につけられたキリスト」と言うことができる。ここにキリスト教の教えが凝縮されている。十字架は、人が目を背けたくなるような最も厳しい処刑の仕方。その十字架にキリストがつけられ、殺された。この出来事には私たちが捉えなければならない非常に重要な教えがある。なぜなら聖書は、このキリストの十字架以外に私たちに真の幸せをもたらすものはない、と教える。このキリストの十字架について学ぶ。

 

一、十字架は、人間の罪、人間の闇を示す
 人は神を認めず、自分の欲望を満たすため好き勝手に生きている。表面をどんなに取り繕ってもその内側 を見れば、嘘、偽り、憎しみ、妬み、悪意、不道徳、ひどい行動等、ありとあらゆることをして生きている のが人間。人は罪であることは分かっても、自分に罪があることをなかなか認めず、言い訳をする。罪とい うものは人間関係を破壊し、罪は自分自身も周囲の人々をも不幸にしてしまう。そしてその罪は最後に神の 審きをもたらすものであって、決して軽視してはならない。そこで罪を犯すことは止めたい、止めようと強 く思っていても、またしてもやってしまう。罪は人間の努力や頑張りで解決することができない。聖書はこ のような人間の姿を「罪の奴隷」と言っている。

 

二、十字架は、神の愛、救いを示す
 聖書は、神がおられること、そして神は愛なるお方である、と教えている。人間の愛は変質しやすく、時と場合によっては愛から憎しみに変わりうる。しかし神の愛は、私たち如何に関わらず、決して変わることがない。神様は、自己中心で罪の奴隷となってしまっている私たちに対して無関心ではいられず、救いの手を差し伸べてくださった。神は御子イエスをこの世に人として遣わし、一切罪を犯さず歩まれたイエス様に、私たちが犯してきたすべての罪を背負わせられた。キリストは私たちが負わなければならない罪の結果としての死を一身に引き受け、十字架にかかって身代わりに死んでくださった。キリストの十字架は、罪人である私たちに対する神の愛の表れである。罪は人を不幸にし、滅びを来たらすが、愛は人を幸せにし、救いをもたらす。十字架は罪人を罪から救い、罪に生きる生活から神の愛に生きる者に造り変える。それは、その人を幸せにするだけではなく、愛に生きるその人を通して周囲の人々をも幸せにする。

 

三、信仰による救い
   私たちが罪から救われ、愛に生きる者となるためには、ただ単純に罪から救ってくださるキリストを信じること。ただそれだけ。信仰以外に救いはない。


 キリストを信じて踏み出し、幸いを体験されるように。