2月11日 礼拝メモ (T・O)
ルカ15章11~32節 (説教) 朝比奈悦也師
「悔い改めの信仰」
本日この箇所から、聖書の教える信仰とは、何を解き明かす信仰であるのかを3つの点から学ぶ。
1、心と行いを解き明かす信仰
聖書の教える信仰は、行いと密着した信仰である。如何に素晴らしい理念や教えであっても、その信仰が行動として表れないなら何の意味もない。ヤコブ書で、行いのない信仰は死んだものであると教えている。また行いは、心が伴うものでなければならない。心が伴わない行いは、形式主義や偽善に陥る。そして心と行いには神様と結びついていることを教える。ここに出てくる弟息子は、父親から遠く離れて放蕩三昧をし、すべてを失った。どうすることもできない所にまで陥って初めて我に返り、何が本当に幸いなのか、自分が如何に神様の前に罪深い者であったかが分かり、悔いて父のもとに帰り、神様と父とに心から詫びた。それによって彼は失ったもの以上の有り余る祝福を得ることができた。一方、兄息子の方は、父のもとで仕事に励んではきたが、心は父から遠く離れており、いなくなっていた弟息子が戻って来たことを喜び祝う父の心に反感を抱き、不平不満で一杯であった。二人の兄弟の姿から、私たちの信仰と日々の生活が神様としっかりと結びついたものであるようにと教えてくれる。
2、悔い改める信仰
自らの内にある罪を認め、悔い改めること。兄息子は自分の内にある罪、自分の実情を認めることができず、父や弟を責めてばかりいた。しかし弟息子は、自分自身の現実の姿を直視し、不幸の原因は自分自身にあることを認め、罪を悔い改めて赦され、救われた。私たち一人一人に聖書は、心と行いが神様から離れていることを指摘し、悔い改めて救われるように、と勧めている(マタイ3:2,4:17)。悔い改めは、不幸な人生から祝福の人生へと導き、滅びの人生から永遠のいのちを約束された人生へ回復させる。
3、唯一の道を示す信仰
神を信じて救われた私たちが信仰生涯を全うするために必要なことは、悔い改め。神様は信仰者に対して神様に似た者とすべく私たちの心の内側を照らし、罪を示される。罪が示されたならば謙って悔い改めること。その罪を認め、心から神様に詫びるなら、神様は喜んで何度でも赦してくださる。全き神様の前に歩む者として生涯この姿勢を続けていくこと。これをきよめの生涯という。この道を歩み続けるとき、神様は私たちをきよめに進ませ、成長させてくださる。
私たちも生涯、この悔い改めの姿勢を保ち、神様の前に謙って歩ませていただく者でありたい。