3月4日(日):礼拝メッセージ

3月4日  礼拝メモ           (T・O)

ヨハネ15章1~8節    (説教)藤本 満 師(前教団代表)DVD

 

 教会とは、パウロはキリストのからだであると言い、イエス様はキリストのぶどうの木であると表現された。教会はキリストをかしらとして信仰者一人一人が愛の内に結び合わさっている。ぶどうの木である教会について3つのことを学ぶ。

 

1、ぶどうの木は実を結ぶ

 「実を結ぶ」という動詞が2~8節の中に7回も出てくる。イエス様は教会に所属している私たちに実を結ぶことを期待しておられると言える。ではどのような結実が期待されているのか。一つは、失われていた魂が神のもとに帰るという伝道の結実。もう一つは、キリストの愛の身丈にどれほど成長しているかという成長の実。霊的成長としての結実(愛・喜び・平和・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制)。黙示録には7つの教会の姿が記されているが、それは私たちの教会の姿でもある。教会とそこに属する私たち個人がどれほどの実を結んできたか。復活のキリストに繋がり続けるなら生き生きとした実を結ぶことができる。

 

2、実を結ぶためにキリストにとどまる

 「とどまる」という動詞も4~7節で9回使用されている。イエス様は、わたしにとどまっていなさい、わたしと繋がっていなさい、わたしのことばにとどまっていなさい、と語っておられる。私たちぶどうの枝として存在するためには幹に繋がる以外にない。キリストにとどまり、キリストから霊的養分を吸い上げる、これが私たち信仰生涯の使命であり、目的である。それは、試練の時も順風満帆な時も、不安なときも平安なときも、みことばを読み、祈り、教会に行き、賛美を歌う。人生どのような局面にあってもイエス様にとどまり続けるなら、私たちの祈りを聞き、答えてくださる。9節には「わたしの愛にとどまりなさい」とある。ペテロは主を三度否み、裏切ったとき、大声で泣き、失意のどん底に落ちていった。しかし再び回復して主の愛にとどまることを学んだ。神の愛を見失わないように、主の愛にとどまることを学ばせていただこう。

 

3、実を結び、留まり続けるために、神に耕していただく

 「わたしの父は農夫です」(1節)。農夫である父なる神は「もっと多くの実を結ぶように刈り込みをなさいます」(2節)とある。神様は、教会の中に、また私たちの心の中に、結実を与えるために枝バサミを入れられる。刈り込むというギリシャ語には二つの意味がある。一つは切り取るということ。切り取られることは痛みが伴う。霊的実を結ぶために切り取られなければならない不品行、汚れ、怒り、憎しみ、自己中心さ、傲慢、頑固さ、冷めた心、等々山ほどある。結実の豊かさは、どれだけ主に心を広げ、切り取っていただくかにかかっている。もう一つの意味はつまみ持ち上げるということ。枝の配置を換えて万遍なく光を受け空気が通るように適切な位置に置く。主は、無駄なものを切り取り、適切な環境に置くようにと、私たちに迫っておられる。

 

 ぶどうの木の農夫である父なる神は、ぶどうの木に愛情を注ぎ、つまみ持ち上げ、切り取ってくださる。その中を主の助けをいただいて歩んでくることができたと、主の前に感謝を献げることができるなら幸いではないか。