10月28日(日):礼拝メッセージ

10月28日  礼拝メモ           (T・O)

 マルコ12章28~34節    (説教) 朝比奈悦也師

「双方向の愛・神への愛」

 

 聖書は愛を説く。なぜなら人間は愛なくして幸せな人生を送ることはできないから。しかし聖書は人間の愛を説くのではなく、神の愛を説く。それは人間の愛では人が本当の幸せな生活を送るには不十分であるから。

 神の愛は人に真の幸いを実現する。聖書が示す神の愛は、イエス・キリストを通して現された。そして愛とは双方向に働くもので、そこに幸せが生まれる。もし一方だけのものであったなら愛は成立せず、幸せは生まれない。先週の礼拝では、神の私たちへの愛は大きく、広く、高く深いことを学んだ。今朝は私たちの神様への愛について学ぶ。私たちの神様への愛が健全であるなら、神様からの愛を余すところなく受け取ることができる。

マルコ12章30節から神様への私たちの愛が如何にあるべきかについて、意識、知識、認識という3点から学ぶ。

 

1、意識

 愛は、愛する者に目を向け、意識する。愛すれば愛するほどそうする。神様への愛の行動としてすることは、祈りと聖書拝読である。祈りも聖書拝読も神様を意識し、目を向けることである。イエス様もこの世にあっては早朝より起き出して祈りをし、普段もいつものこととして祈り、また聖書のみことばにもたえず触れ続けておられた。私たちも神様を愛する者として祈りと聖書の拝読に努めたい。

 

2、知識

 愛は、愛する者に目を向けるだけではなく、耳をも傾ける。愛する人が何を考え、何を語り、何を願っているかを知りたいと思い、それらを知ろうとする。私たちも神様のみことばに耳を傾け、神様ご自身について、神様のお考えや願いについてもっと知らせていただく者でありたい。

 

3、認識

 愛は、愛する者に目を向け、耳を傾けるとともに、愛する者に心を開き、共に居ることを願い、仕え、従おうとする。そして愛する人が願っていることを実現させるために自らが払う犠牲と代価を惜しいとは思わない。イエスさまの地上での日々は、早朝より祈りをもって始め、事ごとに祈り、みことばを慕って生活をされた。そして愛する父なる神様のみこころの実現のために地上生涯を最期まで全うされた。

 

 私たちのためにいのちを投げ出して愛してくださったイエスさまに対して、私たちも心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、真実な愛をもってお仕えさせていただくお互いでありたい。