6月16日(日):礼拝メッセージ

6月16日 礼拝メモ

 詩篇46篇1~11節       (説教)朝比奈悦也牧師

「知れ。わたしこそ神」

 

 私たちはお互いが置かれた場所でそれぞれ生活していますが、その現実の中で翻弄され、振り回されることがあります。そして自分を見失うこともあります。また現実を否定し、目をそらし、孤立し、自分自身を否定してしまうこともあります。聖書は、その現実にきちんと対処して、生かし、自分自身を確立していくことを教えています。今朝お読みしました詩篇46篇からどのようなことであるかを3つの点から学びます。

 

1、騒々しい現実

 一つは、騒々しい現実を見ることです。

「・・・たとえ地が変わり山々が揺れ海のただ中に移るとも。・・・」(2節)自然災害、高齢ドライバーの暴走、親によって子が殺される、家庭内暴力、いじめなど、さまざまな騒々しい現実の中に私たちは生きています。

 

2、その現実への対応

 その騒々しい現実の中で、聖書は、心を静めるように教えています。

「汝ら静まりて我の神たるを知れ。」(10節)と文語訳聖書では訳されていますが、心を神様に向けて、静めるようにと教えています。イエスさまが十字架にかかって死なれた後、人々によみがえりの姿をもって現れてくださり、その後ペンテコステ、教会の誕生の時に至りますが、弟子たちは集まって心を主に向けて祈り続けていました。使徒パウロは、多くの迫害の中で、神様に祈り、賛美し、信仰をもって心を主に向けていました。心を静めることを聖書は語っています。

 

3、現実を生かす

 騒々しい現実の中で、その現実を生かすとはどういうことでしょうか。「知れ。わたしこそ神。」(10節)その現実を知って神様を知りなさいという事です。そのような現実は、むしろ神様を知る最高のチャンスではないでしょうか。悲しみや窮地な時、困難な時こそ、神様がどういう御方かを知ることができるのです。「神はわれらの避け所、また力。苦しむときそこにある助け。」(1節)このことを知るチャンスです。現実を知って、主を知った人の生涯は、恐れない、ゆるがない心をもって、自分自身を確立することができます。

 

 聖書は、現実に正しく対処し、生かし、神様という御方をとらえなさい、と教えています。私たちは信仰をもって、この騒々しい現実の中で、主を知って、心を静めてなおも進ませて頂きましょう。