7月28日 礼拝メモ
マルコの福音書10章46~52節 (説教)朝比奈悦也牧師
「信仰の本質:三大要素」
人は生涯を通して救いを必要としている存在です。そして聖書は、人は「神様の救い」が必要であると教えています。神様の救いは、人からは絶対得ることができないものであり、罪からの救い、永遠の救いを意味しています。この神様からの救いを得るたった一つの方法は「信仰」であります。今朝は、「その信仰とは何であるのか」、という事を3つのポイント(英語の頭文字をとってBTC)より学ばせていただきます。
1、Believe(ビリーブ;信じる)
バルティマイの子バルティマイは、目が見えず物乞いをして、道端に座っていました。彼は、イエスさまが来られると聞くと「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と叫び始めました。なぜそうしたのでしょうか。それは、彼が本気になってイエス様を信じていたからです。周りの人々にそれをとどめられても、「ダビデの子よ、私をあわれんでください」とますます叫びました。どんな事があっても不動の微動だにしない信仰です。彼が実践した信仰は、聖書が一貫して教えている信じる姿勢です。
2、Trust(トラスト;信頼する)
バルティマイは、イエスさまから「どうしてほしいのか」と聞かれた時に、「目が見えるようにしてください」と応えました。彼にとって一番恥ずかしい忌み嫌う、触れてほしくない問題でしたが、ありのまま正直に彼は吐露しました。それは、本当にイエス様に求め頼っている姿(信仰の姿勢)であります。
3、Commitment(コミットメント;従う)
バルティマイは、救いを経験した後、イエス様について行きました。それは自発的に自らすすんで従った姿でした。またそれは先走った従い方ではなく、神様に忠実に従った姿であります。イエス様の弟子のペテロは、最後の晩餐の後、イエス様が捕らえられた時、捕らえた人物の耳を切ってしまいました。また、イエス様から「三度私の事を知らないと言う」、と言われた時、「そんな事は絶対しない」、とその御言葉を否定しました。また、イエス様が捕らえられた時、遠くの方からついていったペテロの姿もあります。先走ったり、遅れを取り、距離を置いた信仰の姿勢は、本当の信仰の姿勢(従うこと)ではありません。バルティマイは、イエスさまと歩調を合わせて信じ従いました。
私達一人一人も、聖書が教える信仰の3つの姿勢を崩さず、生涯を通して歩ませていただくお互いでありましょう。